第２章『武士道プラン異聞録編』
５１話「交わした約束」
数日後。
クローン黛の身体は、一向に回復の兆しを見せなかった。むしろ変わらない一方である。それでもまゆっちは看病を続けていた。
まゆっちだけではない。風間ファミリーの大和やクリス、京やサーシャ達がお見舞いにくるようになった。最初は警戒をしていたが、徐々に話しかけてくれるようになるまで距離が縮まっている。
時にはキャップが大量の土産を置きに。クリスがいなり寿司を。ガクトがプロテインを……殆どが食べ物のお土産三昧だが、その気持ちは嬉しく思った。
そんなある日の事。
寝込んでいたクローン黛に、まゆっちが清拭をしようとした時だった。
「……なあ、お前は」
側で布を絞っていたまゆっちに話しかける。すると、
『おう、オラになんかようかい』
「………」
まゆっちは手の平に松風を乗せて、クローン黛の前まで近づけていた。まゆっちを呼んだつもりだったが……何故ストラップが出てくる、とクローン黛は言葉をつまらせていた。
「こ、こら松風……す、すみません。私ですか？」
どう見ても一人芝居にしか見えないが、あえて見送るクローン黛。だが、同時にクローン黛の疑問でもあった。まゆっちが松風を通して話をする理由が、知りたかった。
「どうして、そのストラップを使って喋るんだ？」
「え……？」
思わぬ質問に、戸惑いを見せるまゆっち。確かに周りから見れば、松風を通して喋っているようにしか見えない。出会ってからずっと不思議に思っていたのだろう。そもそも、不思議と思わない方がおかしい。
しかし、松風はまゆっちと共に歩いてきた相棒のようなもの。彼女にとっては掛替えのないものだった。
「こ、これは松風と言って付喪神の宿った由緒正しいストラップ……いやいや、父上から貰った大切なものなんです」
『おう。しかも、オラは付喪神の中でも由緒正しい血統を次ぐサラブレッド中のサラブレッ………あれまゆっち、今さりげなくストラップって聞こえたぜ？』
「い、いえそんな、私は……！」
そんなまゆっちと松風のやり取りを眺めるクローン黛。今の時点で理解できた事は、松風という存在がまゆっちの支えであり、父から譲り受けた大切なものである、という事だ。
それと同時に、寂しさを紛らわすための感情の表れだという事も。そして、まゆっちの心の声を通す為の手段なのだと。
だが、まゆっちには大和達のような仲間がいる。伊予のような親友もいる。なのに、何故松風に頼らなければならないと言うのか。するとその疑問に応じるように、まゆっちが口を開いた。
「私は……小さい頃からなかなか友達ができませんでした」
胸の内を語るまゆっちの表情は寂しげだった。武士の末裔として、剣士として育てられたまゆっち。そんな彼女は、周囲から畏敬の念をもって接されてきた。
昔から口下手で友達ができず、苦悩の日々を過ごしていた。そんなまゆっちの寂しさを救っていたのが、松風である。
松風はまゆっちの側で、いつでも、どんな時でもまゆっちを励まし続けてきた。彼女がここまで来る事ができたのは、松風がいたからこそである。
故に、まゆっちは松風を否定しない。クローン黛の言いたい事は分かっていた。
もう――――松風は必要ないのではないかと。
「……お前には、仲間がいる。親友がいる。だから、もう―――」
「―――できません」
クローン黛の言葉を遮り、それはできないと顔を俯かせるまゆっち。今まで苦難を共にしてきた松風を、簡単に否定する事はできない。松風とは、運命共同体なのだから。
『……まゆっち、もういいんだぜ？』
悟ったような松風の声。まゆっちも、松風も。薄々と感づき始めていた。
まゆっちには大切な仲間がいて、伊予という親友がいて。サーシャ達と出会い、少しずつ成長した。そして、クローン黛と向き合い、さらに大きな成長を遂げ、彼女に対し、自分から友達になりたいと勇気の一歩を踏み出した……踏み出す事ができた。
今のまゆっちは、一人で前へと進む事ができる。もう松風に頼る必要はない。その時が訪れていた。
「で、ですが松風……」
『成長したなまゆっち……見違えたぜ。もうオラにできる事はなんもねぇよ』
お前はもう立派に一人で旅立てると、まゆっちの背中を押すように語りかける松風。だが、まゆっちには決心がつけず、手の平の松風を悲しげに見つめていた。
「私は……私にはそんなの無理です！松風を、松風をそつ―――」
『甘ったれんなまゆっち！』
いつまでも躊躇し続けるまゆっちを一喝する松風。松風はさらに続けた。
『まゆっち、オラにまゆっちの背中を押させてくれ。これがオラにできる……最後の仕事だ』
「松風……」
松風の気持ちを無下にはできなかった。だが、これは同時に自身の決意である事を理解する。
ここで決断しなければ、きっとまゆっちはずっと今までのままだろう。何も変わらない。だからこそ、まゆっちはこれから本当の意味で変わらなければならない。
ここが、彼女のスタートライン。
「………ありがとうございます。松風」
そう言って、まゆっちは松風に別れを告げた。涙を見せず、松風を笑顔で見送る。これがまゆっちにできる精一杯の笑顔だった。
『オラもまゆっちと一緒にいて楽しかったぜ……ありがとな』
さよなら……と松風もまゆっちに別れを告げ、長年まゆっちと付き添った松風という役目を終える。
これで晴れて、まゆっちは松風を卒業した。長い長い二人の時間は決して忘れはしないと、胸に留めながら。
するとクローン黛の手が、松風を持ったまゆっちの手を優しく掴んだ。その手は弱々しく、今にも崩れ落ちてしまいそうな程に。
「約束してくれ。もう、松風は使わないと……」
「はい、誓います」
そのクローン黛の手を、両手で包み込むまゆっち。必ず約束は守ると。剣士として、そして他ならぬ黛由紀江として、彼女に誓った。
「この松風は……貴方が持っていてください」
その証として、まゆっちはクローン黛に松風を託したのだった。これは御守りですと、クローン黛の身を案じるように。その優しさが彼女に伝わったのか、クローン黛は、
「……ありがとう。安心、した―――」
最後に、まゆっちにそう微笑みかけたのだった。彼女の弱々しい手が、するりとまゆっちの両手から滑り落ち、力なく畳へと投げ出される。
その手から譲り受けた松風が虚しく転がっていく。松風には僅かだが、血がこびりついている。
そしてそれ以上、クローン黛がしゃべる事はなかった。彼女は満足したように、安らかな表情で眠っている。
「え………」
状況が飲み込めない。クローン黛は死んだようにまゆっちの目の前で倒れ伏せている。眠ったのだろうか……否、まゆっちは必死にそう思いたいと願っていた。彼女からは一切の気が感じられない。
知っている。分かっている。彼女に生気がないことも。呼吸がないことも。
それはつまり。クローン黛の死を意味していた。クローン黛はまゆっちに願いを託し、まゆっちの腕の中で、その命を散らしたのである。やがてその残酷な現実が、まゆっちにどっと押し寄せてきた。
「う……あぁ……うぅ……」
まゆっちの目からは、一筋の涙。抑えきれないほどの悲しみが、涙と共に溢れ出てきた。まゆっちは力を失った彼女の手を両手で握りしめながら、彼女の死を嘆き、泣き続けていた。
しばらくして、お見舞いにやってきた大和とキャップ、サーシャがまゆっちの部屋の襖を開けた。
「おーいまゆっち。差し入れ持ってきた……ぜ？」
勢いよく声を上げるキャップだったが、今の状況を目の当たりにして言葉を失う。そこには啜り泣くまゆっちと、力なく眠っているクローン黛がいる。
一瞬何が起きているのか分からなかったが、キャップ達はすぐに理解できた。大和も絶句し、サーシャは目を細めている。
「……りに、して、ください」
掠れたまゆっちの声が、咽び泣きながらキャップ達に訴えかける。彼女の表情は見えない。ただ彼女の背中は、ひどく寂しげだった。
「えぐっ……ひとりに…ぐすっ…してください！！」
今まで聞いたことのなかった、まゆっちの荒れたような叫び。今は、気持ちを整理する時間が欲しいのだろう……キャップ達はただ黙って、まゆっちの部屋を後にするのだった。
日が沈んだ寮の庭にて。
キャップは縁側に座り込み、視線を地面に落とし、まゆっちの気持ちの整理がつくのをただ待っていた。今のキャップにできる事は、それしかないと思ったからである。
サーシャはキャップの横で壁に寄りかかりながら、目を閉じ静かに瞑想を始めていた。
そんな中、
「くそ……くそっ！くそっ！」
大和は近くにあった木をひたすら殴り続けながら、自分の感情を吐き出していた。何度も叫びながら永遠と殴り続けている。
どれくらい殴っただろうか……拳には血が滲んでいた。大和は拳を止めて地面に視線を落とし、
「……みんな傷ついた」
ぼそりと、小さな声で大和は呟いた。そして大和の抱いていた怒りが爆発する。
「ワン子が後遺症を患った……京は死ぬ程怖い目にあった！まゆっちは心に傷を負った！！」
また木を殴りつけ、力任せに叫ぶ大和。仲間を傷つけられた事への怒りは、もう限界を超えている。
「サーシャ……俺はアデプトを絶対許せねぇ！こんな酷い事を平気でしやがって……俺は……！」
大和の拳はもう、皮膚が剥がれ血塗れになっていた。それ程、大和の怒りは凄まじいものなのだろう。大和が再び拳を上げたその時、その腕を、キャップとサーシャが掴んで静止する。
「……やめろ大和。悔しいのはお前だけじゃねぇ、俺達も同じだ。そうだろ、サーシャ」
言って、キャップは隣にいたサーシャに問い掛ける。サーシャは何も答えない。だが答えなくとも分かる。サーシャの左頬に刻まれた聖痕から血が滲み、怒りを象徴するかのように頬を伝っていた。
大和は悪い、と言って冷静さを取り戻し、拳をゆっくりと降ろす。
大和だけではない。キャップやサーシャ達も同じ思いをしているのだ。仲間に手を出された……彼らはアデプトを赦さない、と。
(オレの心は今、怒りで震えている……！)
夜空を見上げながら、サーシャは決意する。アデプトを倒す……全てを終わらせる、その時まで。