アブラ・カタブラ
女の子は、今日一日が何事もなく終わり、生きていることに感謝をしてベットにもぐり込む。
細糸で密に織られた綿シーツは真白で、さらりと肌に心地良い感触がさわさわと小さな音をたてる。
至福を、時計の針が刻みはじめた。ゆるやかに。
スライドのフィルムが入れ替わるみたいに、乾いた風と幾つかの時間だけが吹きぬけたあと、新しい夜が地表を覆い尽くす。
地上を果てしなく眺め続けた蒼い月は、刻々と姿を変える雲を着飾り、ほんの少しの憂いを女の子に見せる。
そして女の子は、眠りの世界へと旅立つまえにセレヌスの呪文を唱える。
「 アブラ・カタブラ 」
この呪文を唱えたあとに続く言葉が願いとなり、かなうと信じている。だから、女の子は願いを定めて、言葉を宙に浮かべようとする。
自分の願いとは、何だろう?
手を伸ばせば届きそうな気がする。でも、届かない。いつも伸ばした指先のほんの少し先にある願いごと。窓の外に拡がる蒼い闇、彼女の独り思案が投影されはじめる。
少年アハマド・ジャビル・カリムは、快活で頭脳明晰、そして何よりも素敵なことは、わたしのことを好きだと言ってくれたこと
イギリスのトニー・ブレア首相は、爆発事件の犯人はイスラムの名のもとにこれを実行したと宣言したこと
幼い少女ハンナン・サリフ・ムトルドのどこまでも透きとおる小さな目は、空を眺めているように吸いこまれそうで不思議だったこと
アメリカのコンドリーサ・ライス国務長官は、木曜日の朝、ロンドンを襲った爆破事件は野蛮な行為だと批判したこと
サイード・シャブラムの幼い手に握り締められた宝物、破壊されて時間の止められた街で見つけた宝物が、劣化ウラン弾のかけらであったこと
「 アブラ・カタブラ 」
蒼い闇が泥の河に姿を変え、濁流となり女の子を覆い尽くそうとしている。
いけない、いけない
窓の外は、あまりにも不確実な世界、なるべく深刻に考えないように目を閉じれば、翼を拡げた鳥のように仄暗い部屋から空想世界へと解き放たれる。
そして今夜も、女の子は何も言葉にできないまま、眠りの世界に拡がる光の草原を、失われた、たくさんの友だちと遊ぶことを夢見て、歩きはじめる。