小説『vitamins』
作者:zenigon()

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

      小糸坂

 あれは七月の夕方、初夏に嫉妬を秘めた鬱色(うついろ)の雲、今にも泣き出してしまいそうな雲が空を覆い尽くしていた。
僕はアパート二階の自室、四角い窓から外を頬杖しながら眺めている。灰色のキャンパスのような空に描かれた黒い屋根のシルエットは灼熱の太陽に色褪せ、時に取り残されたようなモノトーン。
ぬるりとした風が窓の隙間をすり抜け、妖しげな言の葉をそっと囁(ささや)く。
気づくと奥の押し入れ、カタカタと物音がする。やがて内圧がかかったかのように、やや弓なりに膨らみ始め、その予期せぬ事態にごくりと唾を飲み込む。

 開けてみる…… しかないか

 そっと押し入れの戸に手をかけてみる。心臓もカタカタと音を立てている。戸を握りしめた指に感じる風、異様な気配を伴い、どこか懐かしい焦げた匂いが少しずつであるが部屋に漂い始めた。
そして戸を開けきると、すすだらけの柱や藁(わら)の少し浮き出た土壁の異空間が現れ、その奥には藍色の粗末な着物を着た母親と幼い娘が囲炉裏の前で朝げを食べていた。
娘が僕に気づき母親に告げる。「 おっかあ、だれか来たよ 」 母親が振り返り、あちこちと視線を走らせる。ドキリとした僕は立ちつくすしかなかった。
一向に気づかぬ母親、どうやら僕の姿は娘にしか見えないようだ。人差し指を唇にかざし、静かに、という仕草も娘にはわからない。
そろり、そろりと土壁に沿って歩き、娘の視線に追われるように外へと向かう。
外にでると家の前は坂道となっており、青空の下、鍬(くわ)を持った村人たちが談笑しながら歩いていた。誰もが僕に気づかない。まさに透明人間になった気分である。

 ここはどこなんだろう?

 しばらく、村人たちの話に聞き耳を立ててみる。ここから見える山が松倉山であり、その山に城を築いているらしい。どうやら飛騨の国、高山へと時空間を超えて来たようである。
あれこれと思案しているうちに朝げを済ました娘が僕の前にやってきて尋ねる。 「 どっから来た? 」
両手を拡げた仕草で 「 さあー 」 これしか僕は答えようがない。青いジーンズに黒いTシャツ姿、珍妙奇天烈、摩訶不思議を絵に描いたような男に、娘は愛くるしい探求心を押さえきれないようだ。
娘が自分の名前、『 小糸 』と僕に告げると思考の彼方からかすかな暗雲が立ちこめてきた。

 ここは小糸坂なのか?

 松倉城、天守台の人柱となり、母親が狂いながら娘をさがし果てる悲しい物語が脳裏をよこぎり、どす黒い暗雲が明確な姿を現してきた。
「おっかあのそばを離れてはいけない」 僕は時空間に逆らう忠告をし、小糸は愛くるしい笑顔で頷(うなず)いた。
しかし、小糸の無邪気な遊び心は誰にも止められない。僕の制止も届かず、蝶々を追いかけ始めた小糸、坂道を下り、野に入り込んでいった。
僕は夢中になって追いかけた。そして僕の後ろから二人の武士も小糸を追いかけてきた。
誰もいない野原で小糸は武士たちに抱き上げられ、口をふさがれたまま、松倉山へと向かう。僕の拳は、幾ら殴りつけても手応えが無く武士の身体をすり抜けるだけであり、止めることができなかった。
僕はとにかく追いかけ続けた。やがて仮小屋に連れて行かれた小糸は、お白粉(しろい)や紅にて化粧を施され、白い着物をきせられた。小糸を乗せた駕籠(かご)が武士たちに護(まも)られて城をめざす。
 城郭にある門を抜けるとメラメラと舞い踊る炎、大勢の武士たち、そして骨に皮だけが張り付いたような老婆の祈祷師が、ぎょろりとした目を見開きながら呪文を唱えている。
その中に小糸を乗せた駕籠が厳かにおろされていく。
武士たちの目にやどる光の中には、憐(あわ)れみを滲(にじ)ませている者も少なくはなかった。しかし、誰も何も言い出せない。ひたすら時が過ぎることを噛みしめる、しかできない。
僕の悲痛な叫びは誰にも届かず、振り上げた拳は、ただ、ただ宙を切るだけであり、自分の無力を呪った。

 やめてくれ!

 ぽろぽろと流れる僕の涙は、黒雲からの激しい雨に姿を変え、声にならぬ嗚咽(おえつ)は稲妻となって大地を揺るがした。
やがて僕の身体は変形を引き起こし始める。衣服は裂け、毛深く屈強な身体へとなり、廻りの武士たちにも視認できる実体を手に入れた。

 「 鬼がでたぞー! 」 逃げまどう者、刀を抜き構(かま)える者たちが叫ぶ。訳のわからぬまま僕は祈祷師や武士たちをなぎ倒し、小糸の元に駆けよる。
小糸を縛りつけている縄を噛みきり、抱きかかえ門に向かい走り出した。
そのとき、天空から一条(ひとすじ)の稲妻が僕らを貫き、全てが白くなった。そして意識が途絶える。


 どす黒い霧をかきわけるように意識が戻り始めている。淡い闇に包まれたアパートの自室、僕は一糸まとわぬ姿でひれ伏していた。
突如、現代に弾かれた僕は、たったひとりで帰って来た。体中が濡れており、足の裏は土だらけ。腕には小糸の感触、匂いが残っている。

 小糸は、 小糸ちゃんはどうなったんだ!

 とにかく手に取ったものを身につけ、ノートパソコンを立ち上げる。そして狐に憑かれたかのようにキーボードを叩く。
『 こ い と さ か 』そして変換、『 小糸坂 』、検索エンジンGoogleにて実行。
 悲しい結果は一秒も掛からない。物語は歴史から消去されていなかった。
時空間の歪みが僕に与えたものは、地の底に突き落とされたような限りない焦燥感であり、どうしようもない欠落感だけが、ぽつりと取り残されていた。

 その夜、僕は小糸ちゃんの夢をみた。うららかな田畑に続くあぜ道を母親と手をつないで歩いている。それはそれは楽しそうに。
そして雲一つない青空に向かい、手を振っていた。僕に向かって手を振っている。間違いなく僕に。
 僕が存在する世界や歴史ではなく、異なる時空間(パラレルワールド)では小糸ちゃんは生きている。朧気(おぼろげ)ながらにも僕は、そう感じた。
いつの日か、押し入れの中から小糸ちゃんがひょっこり現れ僕に抱きつく、なんて未来もまんざら夢ではないだろう。
そして、そのときが来たのならば、こちら側の世界の話をたくさん聞かせてあげたい。

 ねえ、小糸ちゃん

-8-
Copyright ©zenigon All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える