グリーン
いつものようにぼくは、朝、六時十七分に設定された携帯電話のアラート音で目覚め、顔を洗う。パイル地のタオルでぬれた手や顔をふきながら小さな窓を開け、空を見上げる。
雲ひとつない青空
視線を下げていくと名前の知らない木々が描く影、陽光から逃げるように伸びた影が、くっきりとした輪郭から内側へと黒いフェルトペンで塗りつぶされたかのように見える。いつのまにか季節は春を通り過ぎて初夏となっていた。
ぼくは小さなキッチンに行きコーヒーを入れる。冷蔵庫から出したミルクをたっぷり入れたあと、テーブルの上に新聞を広げる。世界や日本で起きている事象について、客観的な事実と記者の見解が合わさり新聞記事を構成していた。
『 厚生労働省は、新型インフルエンザ感染が疑われていた神戸市灘区の高校三年の男子生徒(17)について、国立感染症研究所の確定検査で感染を確認したと発表。
検疫でなく、ウイルスの国内侵入による感染が初めて確認された。 』
『 内の浦湾に体長約十五メートルのマッコウクジラが迷い込んでから丸二日が経過。
衰弱しつつあるクジラを見守る市民。
救出作業の打ち切りとの対応について、全国から市当局へと抗議が殺到している。 』
読み進めて視点は地方記事、つまりぼくの暮らしている街の記事にたどり着く。片隅に記載されている小さな記事を読む。
『 静岡県沼津市吉沢町、市営アパートから男性、田所和成さん(28)が失踪した。
警察当局は事件、自発的な失踪の両面から捜査をしている。 』
記事に記載された市営アパートの二階、ぼくの暮らしている部屋があり、失踪した男性、田所さんは隣人であった。入り口のドアの新聞受けからはみ出していた郵便物や新聞の日付より、消息不明となってから少なくとも七日は経過していると思われた。不審に感じたぼくが市役所へと連絡、市職員とともにロックされていないドアを開け、恐々としながら田所さんの部屋へと踏み入れた。
閉められたままの部屋には、どんよりとした空気が塊のようにとどまっており、小さな木製テーブルの上には食べかけのカップめん、割りばしは床に落ちていた。同じく四角いテーブルの上にはT社製のノートパソコン、電源は入れられたままであり、キーボードに触れると、目覚めるようなしぐさで黒い画面から、なだらかな丘に続く草原が現れ、十四インチのディスプレーのなかで広がった。吸い込まれるような風を感じたのは、どうやらぼくだけで、市職員は電話の先にいるであろう誰かと、弱ったような面持ちで話し続けていた。
つまり、それは昨日の出来事であり、警察や市職員たちが次々と訪れては、深夜まで同じような質問を繰り返し、ぼくは同じように答え続けた。
田所さんに関してぼくの知り得ていることといえば、
1 神奈川県出身で、大手町の証券会社に勤務していること
2 明朗活発であり、失踪する理由などまったく見当がつかないこと
3 最近、田所さんの部屋から不審な物音などは聞いていないこと
あとは、過ぎてゆく日常生活、なんでもない日のなんでもない会話ぐらい。それはぼくの記憶のなかで、コマ送りの映像のように投影されていた。
新聞をきちんとたたみ、コーヒーカップを洗い、着替える。出勤のしたくを済ませると、朝はいつのまにか駆け足で過ぎ去り、会社に着いて仕事が始まり、終わる。そんな風に、今日という一日が過去へと埋もれていった。
帰宅後、部屋の明かりをつける。ちりちりと音をたてる蛍光灯から広がる白色光、埋もれぬように存在を誇示したい時計の針が午後十時過ぎであることを示していた。
風の音に紛れて男性の声、かすかに田所さんの声が聞こえたような気がした。しばらく思案したあと、隣の部屋、田所さんの部屋に向かい、入り口のドアをたたいた。
どん、どん、という音が田所さんの部屋の闇へと吸い込まれていく。ロックされているドア。やがて、がちゃりと物音がしたかと思うと、部屋の内側からドアのロックが解除された。ぼくは大きな声で「 田所さん 」と呼びながらドアを開ける。
白い月明かりの下、えたいの知れない何かが市営アパートの影のふちをそっとつたい、ひんやりとした風に姿を変えて、ぼくの背中を押している。
部屋の中央にある木製テーブルには、昨日と同じ位置にノーパソコンが薄闇のなかで見える。主(あるじ)を失ったノートパソコン、閉じられたままのフタが音もなく、ゆるりと開きはじめた。ぼくは両目を見開き、異界からの透きとおる手が伸びてきてノートパソコンのフタをつかみ、十四インチのディスプレーを起きあがらせてゆくさまを声も出せずに眺めていた。
十四インチのディスプレーに向けて風が強くなり、ぼくは吸いよせられるように近づく。ディスプレーに映しだされた景色は、なだらかな丘に続く草原であり、そのなかに小さな点を見つける。
眼をこらすと、小さな点は、赤白(あかしろ)のチェックカラーのシャツを着た田所さんであることに気づく。
草ぶき色のにおいが部屋のなかをたちこめ始めたかと思うと、ぼくの視界が次第に薄れていく。
「 緑色の仮想空間にようこそ 」 と女性の人工音声、ノートパソコンのステレオスピーカーが、繰り返し囁(ささや)いている。