小説『追憶は緋の薫り』
作者:因幡ライア()

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 深夜零時十八分。

 まだ三月の足音が聞こえ始めた二月二十七日の白梅町の大気は凍え、僅かに明かりが残る駅前の繁華街以外

まるで息を潜めて眠る動物たちの姿を連想させる。

 東京からさほど離れていないとは言え電車の本線から枝分かれ、指で数えられる場所にあるこの町は

都会だけでなくヘタをすれば本線の人にさえ名の知られていない駅で、とりわけ有名なものがあるとすれば

真新しいショッピングモールと幼稚園から大学までのエスカレート式進学校である白梅学院があるくらいで、

それを除けば高齢者のベッドタウンがあるだけの何の面白みもない町だからそれも致し方ないだろう。

 これでも三十年前は沸き立ったマンションブームに乗って新しい風が吹いていたのに今では道をすれ違うの

は、孤独死を待っているのかシワクチャな顔を余計にシワクチャにして野良猫を相手にする七十歳以上の男性

やまだまだこれからの人生楽しまなくちゃと顔に書いてある派手な服装で闊歩している八十歳以上の猛者が

ちらほら目立っている。

 もっともこの町は丘陵にあるため敢えてベッドタウンと言えるかは住民に任せるとして、駅から右上に見え

る場所には仰々しくも鳥居に守られた神社か寺院かと思われる瓦屋根の建物がある。

 敷地内には篝火がいくつか焚かれ、今にでも武装した侍が走ってきそうな厳かな雰囲気がまるでここだけが

切り裂かれた別世界ではないかと想像させる。

 渡り廊下に沿って奥に進んでいくと日本庭園が広がり、敷き詰められた石の上にこじんまりとした母屋の

ような建物が椿の生垣の中にひっそりと佇んでいた。



「雄黄(ゆうおう)っ!おいっ、聞いてんのかっ!?」


 雨戸をつんざく声は若く、十代後半か二十代前半が容易に想像できる。

 ……しかし、お世辞にも神学を学ぶ者が口にしていい言葉には思えない。


「聞いてますよ。そんなに怒らないで下さい…………頭に、響きます」


「ならっ、そんなん拾ってくるんじゃねぇよ!」


 猛り狂う言葉とは裏腹にその声は泣いているようにも聞こえる。

 鼻を啜る音はさすがに外界には漏れてはこないが、その場で暴れだしてしまいそうな勢いがそれには

あった。

 一方、宥めるように語り掛けてくる声は蚊の鳴くようで、今にもその命が途切れてしまいそうな危うさが

その声にブレーキを掛けているのだろう、それ以上何かを揺るがす物音はまだない。


「そんなこと言ってはダメですよ。仮にもあなたたちはっ……ごほっごほっ」


「雄黄(ゆうおう)っ!?」


 前触れも無く咳き込んだ所為か、静まり返っていた母屋の中が複数の物音でどよめき出し、雨戸の隙間から

銀髪の若者が顔を出し、辺りを見回してからまた奥へと引っ込める。

 それはまるで何かの動物が巣の中から辺りに敵がいないか確認したみたいだった。


「…………左近(さこん)。夜風は体を冷やす」


「解ってるさっ!でもっ、このままじゃ雄黄(ゆうおう)はっ」


 そう呼ばれた青年は眉間にありったけのシワを寄せ、何かを堪えるかのように歯を強く噛んだ。

 彼の背中から諭すように語り掛ける声は同じ質を持っているのか今は荒げているが所々類似している。

 荒い呼吸と誰かが背中を擦る音が室内を巡り、単調な曲が三人の心を哀愁で満たしていく。



 もう時間は…………ない。



 ふと過ぎる恐れと絶望が形を為しそれぞれの胸を締め付けていく。

 まだ咳き込んではいたが先程より大分落ち着いたのか、弱々しくも礼を一つ口にすると少し遅れて背中を

 摩る音も止んだ。

 雨戸の側で蹲ったまま動かない銀髪の彼を呼ぶ。


「……左近(さこん)。こちらに来てください」


「誰が聞くもんかっ!」


「…………左近(さこん)」


「右近(うこん)だってそうだろっ。また俺たちを置き去りにしてテメー一人でイッちまいやがる。そんな

の………………勝手だっ」


 突発的に顔を上げた所為だろう、頭を左右に強く振っただけで目の端にいっぱい溜まった涙がその磁器の

ような白い肌に一筋伝う。

 彼の背後に広がる四畳一間の世界には今まで横になっていたであろう布団から上半身だけを起こしてこちら

を見ている寝巻き姿の青年とその脇で左近(さこん)と同じ顔のと、言ってもこちらは髪も眉も瞳の色さえ

金を宿した青年が重たげな口をより一層強め三人の間にまた静けさが広がっていた。

 幼子のように力任せに着物の袖で目元を拭う左近(さこん)の優しさは数多な時を共にしてきた二人には

解っていた。



 また二人を残してイってしまう雄黄(ゆうおう)。



 それを見送らねばならない二人。



 あんなに一緒だったのに、それに終わりが来ることを知っていたのに、気付かないフリをしていた。

 この事実を本人に告げられた時気が動転して尊ぶべき彼の胸ぐらを掴んでいた。

 普段顔色を変えない唯一の肉親であり対の右近(うこん)ならばどう思うだろう。

 無愛想に拍車を掛けるのがその重たげな口だ、華宵殿(はなよいでん)に来た客にもその態度は変わること

なく中には物好きにもファンがいたりするがそれはほんの一部で、大体は『怖い人』と思われているだろう。

 少なからず他人からそんな風に思われているらしいと言うことは知っていて、顔には出さないが結構キズつ

いていることを左近(さこん)は理解している。

 尤もそれは右近(うこん)にも同じことが言えるのだがこの場では敢えて伏せておこう。

 拒絶している自分とは違いその胸に溜め込んでしまう双子の兄、現在進行形でキズついているであろう。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。



 まだ彼は三十年も生きてない。



 いや、命はいつだって平等だ、そんなことは解っている!



 なのにっ!……やっと……やっと逢えた………そう思っていたのにっ。



 ………………この運命は何に対する罪だと言うんだっ!?



 ……人間の生命は何て脆いのだろう。


「すみません。いつも君たちに無理を言って」


 背後で待機している彼を振り切って立ち上がる……ろうとして大きくふら付いた所を肩に回された腕に抱き

かかえられる。

 こちらに向かって手を伸ばす左近(さこん)が雨戸の傍らから消えたのと銀の髪が雄黄(ゆうおう)の頬を

掠めたのはほぼ同時だった。

 恰も幻のように残像が大気に溶ける瞬間、彼が笑ったがこちらはそれどころではなく今初めて知った事実に

愕然としていた。

 病魔に蝕まれている所為なのか二十代の男性としてはかなり痩せ細り、預けられたであろう重みでさえ

以前とは比べ物にならないほど軽い。


「全くだ」


 また目頭が熱くなってきそうな気がして思わず強い口調になってしまった。

 以前、よくその場を考えないで勢いでものを言うと二人から説教をされたことを思い出す。

 心の中で舌打ちしてからでは遅いが、視線は相手を覗き込んでいた。


「すみません……ごほっごほっ」


「いーから寝てろ。依頼なら俺たちで何とかする、だから…」


 口元を押さえて咳き込む雄黄(ゆうおう)をすっと立ち上がった兄に手渡そうとするが弱々しく掴まれた

袖からそれを無下に外す真似はできない。

 今はこんなだがあくまでこの青年は従うべき主、我のために力を使えと下されれば地の果てでも駆け抜ける

し、我のためにその命を差し出せと下されれば己の喉元を喜んで鋭い爪で掻っ切るだろう。

 しかし、歴代の華衣(はなごろも)はそれを命ずることを禁じ、己が生を全うするまでその傍らにいること

を願った。

 そして、巡りくるであろう次の代の「友」として相談に乗って欲しい……と…。

 その身に宿る……紅の刻印が総てを焼き尽くすまで……。


「今までっ…………勝手なことを言って……すみません」


「謝るなら俺達を一緒に連れてけよっ」


「…………それは、できません」


「なんでだよっ!!」


 眠いのだろうか、既に夜中の十二時を回っているためか先程から妙に重たげに瞼を閉じたり開いたりを

繰り返している。

 彼が病に臥せてから幾度この行為にヒヤヒヤさせられたことだろう、今でもそれは変わらないのだがどうせ

今宵も杞憂であろう、そうであってくれと思うことが少なからず多くなってきた気がする。

 額と額を突き合わせるように詰め寄る左近(さこん)にいつも湛えている微笑はそこにはなかった。


「何でだよっ?!理由を言えっ、理由をっ」


「…………私が死す時…………それはっ、新たな華衣(はなごろも)が現われた時……」


 また眉間にシワを寄せて今にも唸り声を上げそうな表情に僅かに頬を緩ます。

 右近(うこん)に支えられながら双子たちの髪を優しく梳く指は色素が薄いためか余計に儚く見える。

 その姿はまだ華宵殿の中で過ごしたある日を思い出させた。


「君達にまた出逢う事が出来て……本当に幸せでした」


「だからっ!」


「いいから聞いてやれよっ!」


「右近(うこん)…」


 一向に進まない会話にまた迸りそうになった怒りは小火の内に水を掛けられてしまった火種のように情けな

く胸中で燻り、余程兄に叱られたのが堪えたのか焼け焦げた箇所を残したままその姿は白い煙と共に天井に

溶けていった。

 滅多に感情を露わにしない片割れに蛇に睨まれた蛙の心地で喉元に出掛かっていた言葉を生唾と一緒に

飲み下す。

 自分はどこを間違ってしまったのだろう、視線を避けるようにまた開け放ったままの雨戸に振り返り夜空を

仰ぎ見る。

 その先には銀の瞳と同じ色をした月が冷たく微笑んでいた。

 いつの世も変わらず地上を巡るその輝きは遥か遠い記憶にも劣らず美しい。

 その姿を見ているだけでこの胸のモヤモヤがすぅと晴れ、素直になれそうな気にさせてくれる。


「今宵の月は何ですか?」


「ん?あ、あぁ……あれは見事な望月…………いや、あれは十六夜(いざよい)だな」


 唐突にそう問われ、我を忘れて見入っていたことに些か驚きながら昨夜眺めたものを思い浮かべて答える

 口元は久々に笑みで緩んでいた。

 見方と時期などの関係でその色も形もコロコロと変わるが空を見上げれば静かに見守るかのようにいる月が

好きだと、言っても嫌いだと言う人間をこれまで生きてきて聞いたことも無ければ遭った事もない。

 特に二人が生まれ育った日本には愛でる文化が強く、遥か昔は異端と見なされていた髪などの色を合わせ、

ぼおっと眺めたり詩や短歌などの会に忍び込んだりした。

 現代より規制はかなりあったが力も使えるし護るべき華衣(はなごろも)もいたし何よりお互いが常に支え

合っていたから辛くも寂しくも無かったが、稀にこうして羽目を外しすぎて逆鱗に触れてしまった時は声を

掛けるのさえ憚られ独りぼっちで深海に投げ出された気に襲われる。

 同時に思考回路は停止し、普段流れ込んでくるはずの右近(うこん)の心は遮断され元から乏しいあの表情

だ、外見からそれを読み取ることもできない。

 彼はどう思っているかは知らないが弟はこの倦怠機関が嫌いだった。

 それを引き起こしているのは他の誰でもない自分だと重々理解しているつもりだがそれでも「対」と言う

絆を無視され、その他大勢の中に囲われるのは身を裂かれるより痛いし悲しい。

 自分自身を抱きしめるように両腕を組んで月を仰いでいた最中に背後から声を掛けられたのだ、逆に驚かな

い方が肝が据わっているというものだ。


「十六夜(いざよい)……ですか。それは嬉しいですね。私も好きですよ…………十六夜(いざよい)の君……」


 支えられたままの格好でもあの銀色に輝く月の姿が見えるらしく、雄黄(ゆうおう)はいつもと変わらない

口調で愛でた。

 彼はその神々しさに敬意を表して「○○の君」と呼ぶのが癖になっている。

 これがもしも縁側で酒を酌み交わしながら眺めていたのならあしらっていただろうがこの時ばかり自分の

妙に勘の鋭いことに後悔したことはない。

 ……振り返った先には陣を結び終えた雄黄(ゆうおう)の姿があった。

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