小説『月の裏側』
作者:雪篠(A BLANK SPACE)

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 170前後だったと思います。
 答えた声が少し掠れた。けれど特に疑われた様子はない。そう、ショックと緊張の為だと思われるだけだろう。
 明くる日、その嘘は電波に乗って、ひっそりと駆け巡った。
 ――――アタシは、嘘を吐いた。




 ドクリッ、と壊れそうなくらい鼓動が響いた。まるで身体の内を震撼させるように。心臓が止まったのかと瞬間脳が誤解するほどに一際大きく胸を打ったそれが喉を塞いだ。渇いた口腔がやっとのことで苦しげに息をひとつ呑み込む。
 足も声も、左手が触れたアイスから凍りついてしまったかのよう。動けないのは目の前に起きている事件の所為ではない。レジのカウンターを隔てて1メートルとない距離にいる相手の所為だ。

「ほら、さっさと行くぞ」
 先に出口へと走った仲間の声に、男も素早く自動ドアの向こうへ消えていく。
 自動ドアがウィーンと音を立てて閉まって、やっとぎこちなく俯く。まだ、身体中がドクドクと脈打っているようだった。
 あの瞬間、ヘルメット越しなのに確かに目が合ったような気がした。

「そうだ、電話、通報しなくちゃ……」
 のろりとした動きで受話器を取り、髪を掻き揚げようとして左手の冷たさに驚いて小さく声をあげた。

 ―――― 一人で、良かった。
 それは通常、バイト先がコンビニ強盗の被害に遭った場合に思うことではなかった。

 ――――アタシは、あの声を、知っている……。
 カウンターには、だらだらと汗をかいたアイスだけが残されていた。

***

 次の日、大学へ着くと朝のニュースのコンビニがアタシのバイト先だと知ってる友達が数人、心配そうに声を掛けてくれた。有り触れた事件はどうやらここ以外では話題にも上らないようだ。

「でもさ、170前後で中肉、黒のジャンパーにジーンズの二人組なんて……コンビニ強盗の典型すぎて絶対見つかりっこないよ。しかも、メット被ってて顔わかんないなんて」
 ニュースで流れた犯人の特徴を復唱しながら、肩をすくめる。怪我なくて良かったじゃない、別の友達が笑う。

 そう、見つかりっこない。
 そんな条件に当てはまる男は世の中にいっぱいいすぎて、でも本当はそんな犯人、存在しない。見つかる筈が、ない。



 始業時間になってみんなが散ると、教室の隅、窓際へちらりと視線を遣る。普段は大教室での授業が多いけれど、必修の英語の時間だけはクラス単位の出席重視、指定された席にほとんどの人間が顔を出している。

 いた。
 一応出席しているといった様子で、眼鏡の奥の視線は教科書へも黒板へも向いていない。茶色がかった髪の毛がさらさらと陽に透ける。先生が話し始めたのに合わせて前を向いたのか、その髪が少し揺れた。
 アタシは目が合わない内に視線を外して、俯いて教科書を睨んだ。

 平坦な音読の声が続く。いつも通り。あとは時折、試験に出そうなところだけメモを取るペンを走らせる音が聞こえる、それだけ。

「岸本」
 指名の声。ドキッとして、ペンを握る手に一瞬力が入る。窓側の列が順に当たっていた。名を呼ばれた学生が、前の席の学生に続いて、教科書を読む。
 今なら少し視線を向けても不自然じゃない。アタシは、もう一度彼を盗み見る。

 背が伸びたなあ、と彼に最初に気づいた時に思った。低くなったけど低過ぎない声に、ドキリとした。面影を残した瞳は、伊達なのか昔は掛けてなかった筈の眼鏡が隔てていたけれど、名簿で名前を見てたから、すぐに彼だと分かった。たとえ、中学校以来でも。
 ……でも、きっと、彼はアタシを覚えていない。
 クラスが一緒になって、それから彼が転校するまでの半年。仲がよかった訳でもない女子まで、覚えてる訳がない。
 だから、気づく筈もない。中学が同じだったこと、昨日コンビニで会ったこと……今、同じ教室にいることも。

***

 図書館へ続く廊下に彼が、岸本尚紀がいた。いつものようにただすれ違うだけだと思っていたから、彼が道を塞ぐように真ん中を歩いていても、アタシは手前で身体を壁側へ寄せてそのまますれ違おうとした。
 すれ違う直前、彼がすっと身体の向きを変えた。それだけで、気がつくとアタシは壁際に追いつめられたみたいになってた。

「ねえ、アンタさっきの授業で俺のこと見てたよね?」
 目線を合わせるように腰を折って、アタシの表情を覗き込む。さらりとした少し長めの前髪が眼鏡の縁にかかって瞳に陰を落とす。
 気づかれてたことより、こうして声を掛けられたことより、顔の近さに驚いて声が出なかった。こんな時なのに、睫毛の長さだとか見てるアタシは、馬鹿だ。

「ねえ、なんで、嘘、吐いたの?」
 アタシが答えないから、彼は質問を変えた。多分アタシはその質問に普通のフリなんてできた訳がなかった。
 顔色を変えたアタシに、やっぱりね、というように呆れた調子で肩をすくめる。その様子からは威圧は感じない。ただただ不思議そうに純粋に好奇心で尋ねたという風に見える。

「昨日、俺だってわかったんでしょ。メット被ってたのに声でわかったんだ? すごいね」
 まるで小さい子を誉めるみたいな声だ。優しいけど、すごく優しいけど、昨日アタシが気づいてたのを確信してなきゃ言えない言葉は、何を考えてるのか見えなくて、怖い。

「あの、アタシ……言いませんからっ」
 小さく言うと、また不思議そうに彼は目を細める。

「なんで嘘吐いてくれたの? 俺、身長183よ? 170前後ってことないでしょ」
「知って、ます」
 183センチ。長身で、少し痩せ型。
 強盗の身長なんて正確にわからないことだってあるかも知れない。けれど、誰だかわかってたなら、話は別だ。彼はそう言ってる。

「庇ってくれた訳? それとも、脅迫でもする?」
 壁から遠い方の手を、アタシのすぐ傍につく。
 そうされて初めて、後ろになら逃げられたかも知れなかったのに気づいたアタシは、心底馬鹿だ。もっとも、退路なんて塞ぐまでもなく、逃げてもすぐに捕まってしまっただろうけど。

 それとも、と顔に触れるか触れないかの距離で、彼の手がアタシの髪を掠めた。
「……っ」
 バカ、赤くなるな、顔……思っても、全然遅い。脳の命令なんて、効く筈もない。

「俺のこと、好きなんだ?」
 多分、もっと顔が赤くなったのが、見なくたってわかった。こんな時なのに、なんて素直なんだろう……サイアクだ。
 急に左手で壁を押すようにして彼が離れた。反射的に顔を上げると、目が合って彼が笑った。

「じゃあ、いいや。黙ってて、ね?」
 何にもなかったみたいに離れて行ってしまう。コンビニで背中を向けた時よりも、ずっとずっとあっさりと。
 こんなの、ズルイ。
 ……こんなズルイ人だなんて、思わなかった。

 ――――なのに、なんで、心臓は黙ってくれないんだろう。

***

 悩んだ末にアタシは心を決めた。
 だって、ズルイ。アタシだけ、あんな風に気持ちを知られて、こんな何にもなかったみたいに終わってしまうのは、絶対フェアじゃない。

「久し振り」
 呼び止めたら、岸本はそう言って目を細めるように笑った。あれからアタシが二日間なるべく避けるようにしてたのも、全部お見通しに違いない。わかってて面白がってる。
「話があるんだけど」
「……じゃあ、デートしよう。どーせ、もう講義ないんでしょ」
 答えも待たずにいきなり手を引く。負けるもんかと思っていたアタシの小さな決意は、もう既に惨敗していた……。

 どこへ連れて行くのかと思えば、辿り着いたのは大学の近所の公園で、つまりは『デート』の意味は『知り合いに聞かれない所で話そう』ということのようだ。別に期待した訳じゃないけど、いちいち何だかズルイ。
 ズルイっていえば、この人、自分だけ飲み物持参だ。手にしたペットボトルを恨めしげに見ていると、飲む? なんて平気で訊く。アタシがぶんぶん頭を横に振ると、ひっかかる笑い方をしたから、きっとわざとなんだろう……無自覚の方がタチ悪い気もするけど。

「あの!」
 アタシは決意を込めて言う。勝手に一人でベンチを見つけて座っている彼と目が合う。言葉に詰まったアタシに、座れば? と隣を指す。
「何が訊きたいの?」
 座った途端に先読みみたいに言った。ギクッとして顔を見る。
「訊いていいよ、答えられないことは勝手に黙秘するから」
 からかうみたいに言う目がどこか優しい。裏切っている瞳がやけに惹きつけるから、アタシは目を逸らしても合わせてもドキドキする。

「……もう一人の人は、あの人も、うちの大学の人?」
「違う。アンタの知らない奴。だから、俺が捕まっても、俺さえ黙ってればあいつは捕まらないよ」
 庇うんだ。
 ……さりげなく、アタシがバラす可能性を示してみせる。信用されてない、そう思ったら、胸がチクリとした。

「なんで、あんなことしたの?」
「あいつがさ、バカでね」
 もう一人の人のことだろう。呆れたような、苦笑するような言い方。直球すぎて、いくらなんでも答えないだろうと思ってたから、まるで何でもないことのようにさらりと口を開いた彼に驚く。

「あいつ、昔っからバカでさ。大して行ってもいない高校で、バカなことだけ覚えて来て……変なグループ入って。今頃ヤバイのに気づいて、俺に『どうしよう』って言う訳。抜けたいなら金持ってこいって言われた、って」
「でも、だからって、コンビニ強盗?」
 なんか、似合わなかった。のらりくらり、じゃないけど、気まぐれでどこかさらさらとこんな風に水が零れるように話す人には。
 アタシの中で、善悪とかはとっくにどっかへ行ってた。
「バイトじゃ足りないし、多分キレーな金じゃ納得しないでしょ。真面目になりたいからイチヌケなんて、あいつら絶対許さないだろうし。付きまとわれない為に、決意見せる必要もあった」
 アタシにはわからない。わからないって言ったら、多分、わからない方がいいって言う。いいよ、って顔で、いつもみたく笑われるのが嫌で、アタシは黙ってた。

「あいつ、追いつめられてたし、あいつだけで行かせたらどうなるかわかんねーし、店員怪我させるかも知れなかったから」
「だから、ついてってあげたんだ。じゃあ、岸本、アタシの命の恩人だ?」
 違うの、わかってた。彼が助けたかったのは店員じゃなくて、あの人。
 彼は、驚いた表情で、俯いて、それから小さく笑った。見たことない、淋しい顔。……この人を、抱き締めてあげたいって、そう思った。アタシはとても小さいけれど、精いっぱいで抱き締めて守ってあげたかった。

 彼と、アタシの考えていることは、絶対的に噛み合ってない。
 薄情にもアタシは、なんで岸本が巻き込まれないといけないんだろう、って思ってる。アタシが気になるのは彼で、知らないもう一人……彼が大切にしてる友達なんて、アタシにはどうでもよかった。

「アタシ、絶対言わないから。誰にも、言ったりしないから」
 伸びそうになる手を、ギュッてして堪えた。
 ありがとう、って彼が言った……こないだとは全然違った。




 全部話した後の、少し気まずそうな沈黙が覆って、二人ともずっと黙ってた。わざとひとつ遠い駅まで歩いて、でもその間、なんにも言わなかった。

「じゃあね」
 そう振り返ろうとしたアタシの視界は、気づいたら真っ暗だった。頭すっぽり収まる感じで彼の手が、アタシを軽く抱き寄せたから。大きな手。細いのに少しごつごつした。私の手とは全然違う手。
「ごめんな」
 一瞬で離れた。その直前に、彼がそう言った。
 何がごめんなのか、アタシには確かめられなかった。巻き込んでごめん? ……関係ないことなんだからって、そう言って締め出されてしまうのが嫌だった。そんなのわかりきってたけど、言われるのが怖かった。

 帰りの電車は反対方向で、向かい合ったホームで目が合ってアタシは手を振った。岸本は少し笑ったようだった、目を細める笑顔。
 電車が来て、電車が行ってしまった後には当たり前だけど彼の姿はない。それだけなのに、その場にしゃがみ込んでしまいそうなほど、淋しかった。

***

 休みが明けて、それから数日経って、アタシはやっと岸本尚紀が姿を消したのに気づいた。
 あの時の、無性に淋しくなったのは……予感があったからだったんだろうか。

 きっと二人で逃げたんだろう。
 アタシは、日常にオイテケボリ。

 ――――事件の日に感じた気持ちに、少し似ていた。



 店の奥で刑事に話し終えた後、カウンターでは、置き去りにされてすっかり溶けきったアイスがヘタリと平たくなっていた。袋を持ち上げようとすると、たぷんっ、と水の揺れる感触があって、ぐにゃりと歪む中から残された棒の部分を探り当てて抓むとゴミ箱へ放り込んだ。
 嘘を吐いた罪悪感ではなく、ただあの声だけが、不確かな心の中に溶けたアイスの中の棒のように残っていた。




『これを。それから――金を』
 そう言って、安いソーダのアイスがぽつんと置かれた。さっきまで彼が持っていたアイスはアタシの手の中にあり、彼の手にはナイフがあった。コンビニ強盗に遭った時のマニュアルに従って、逆らわずに言われた通りもう一人の広げた袋にレジのお金を入れている時も、彼は……岸本はアタシをじっと見ていた。
 ――――本当は、気づいていたんじゃないの?
 そう思うのは、自惚れなんだろうか。最後まで、アタシの名前さえ呼ばなかったのに。



 アタシのあの嘘は、183センチとの差分、確かに告白だったんだ。なんて滑稽で、傍迷惑な告白。
 廊下で頬を染めるまでもなく、アタシの気持ちはバレていたんだろうか。

 あの廊下で、長い指が触れた時、アタシは間違っていると知りながら、それでも一瞬、この手になら殺されてもいいな、なんて、思わず目を瞑った一瞬に、思ってしまった。



 こんなにも心乱されるのなら、みんなの知らない顔なんて見せないでくれればよかったのに。月のように、いつも同じ顔を見せてくれていればよかったのに。

 ああ、だけど、どうせいなくなってしまうのなら……どこか遠く、知らないところまで行っちゃえ。
 ――――そう、月の裏側までだって逃げきって。

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