小説『糸と世』
作者:塩島台()

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 季節は春先の肌寒い頃、私は我が身をケダモノから救ってくれた男と東京の路地を歩いていた。
「あの、さっきはどうもありがとうございました」
 私は隣を歩く男に頭を下げた。
「良いって良いって。東京じゃよくあることだし。それよりずいぶんと重たげな荷物を引きずってるけど、旅行帰りか何か?」
「いえ」
 私は上着のポケットから2枚、うすい青緑色をした紙を取り出して男に見せた。
「今日新幹線で東京に来て、そのまま住むんです。引っ越して来たっていえば正確かなと」
「ふ〜ん。そうかい。東京に引っ越して来ていきなりあんなことがあるなんて災難だねえ」
「はい。ちょっと、本当に帰りたくなりました」
「そりゃそうだ。まぁ、家まではついていくよ。2度あることは3度あるからね」
「ありがとうございます。どっかの国で4度あったなんて事件もありましたしね。日本も安心できたものじゃありませんでした」
「それは男がケダモノってこと以外にももう1つ理由があると思うけどなあ……」
「というと?」
「ん〜例えばさぁ」
 と、男は突然私の二の腕を掴んだ。
「どうしたんですか……?」
「いや、こういうことだよ」
 男は私の二の腕を放し、少し散らすように笑った。
「女性の注意力不足。こんな細い道を夜歩くならもう少しくらいは、ね」
「し……仕方ないじゃないですか……!後ろからいきなり抱きつかれて……」
 ケダモノのことを思い出して、私の背筋を悪寒が襲った。当たり前のことだが私はあのような男に遭遇したのは初めてだった。
 この男が助けてくれなければ私は男性恐怖症で一生引き篭もって過ごしただろう。
「分かってるけどさ。俺も東京来てから何度かこういう風に女の子の窮地を救ったことがあるんだけど、2人ほど助けてあげた後に俺を誘った奴がいたりしてね。低質化が叫ばれるっていうかなんていうか」
「じゃあ、何で私を助けたんですか?」
 私の質問を聞いて、男は笑いながら息をついた。
「そういうタチなんだよ。俺も君と同じで田舎から上京してきた身なんだけど、田舎で樹に隠れて行われていたものが、東京ではビルに隠れて行われていた。幻滅したよ。『東京はええとこ』っていう考えを持っていたからね俺は。幻想だったわけだけど。人間は何かが林立してればそういう行為に走っちゃうのかねぇ」
 男は飽きれたような表情をして空を見上げた。雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。ビルの向こうに見える大通りの歩道にも、立ち止まって天頂を見上げる男がいた。
「あの、住所を見る限り大体このあたりみたいなんですけど……」
「ん?あぁ、住所見せて。多分分かるから」
「あ、はい。えーと……」
 東京都千代田区加賀多屋町……その下の数字まで、私は男に口頭で伝えた。
「……新幹線で東京に来たんだよね?」
「はい。東京駅から結構歩きました」
「東京駅で地下鉄に乗り換えてればケダモノに襲われることなかったかもねぇ。こっちだよ」
 男は今いる路地の隣の路地に入った。
 隣の路地はさっきのそれよりもいささか広く、多少の車や人の通りもあった。
 大通りよりもビルは少なく、代わりに居酒屋やファミリーレストランのような食事施設が出店している。
「住所を見る限り多分この建物だと思うんだけど……」
「はい。ありがとうございま……え?」
 私は男の声に気付いて顔を上げた。
 そこにあったのは石油危機のころにでも建てられたようなぼろの入った雑居ビル。何をどう考えても、酒も飲めない齢の私が、しかも居住するということには適さないものだった。
「本当にここに住むの?」
「多分、そうなるんでしょうね……。私も父親から住所だけもらってここまで来たので……。でもこれは流石に予想外でした」
 私は諦めたように微笑した。これはない。私の東京1日目はアクシデントばっかりだ。
「この建物の3階だそうです。もう12時回ってるみたいなんですけど……家は近いんですか?」
「ちょっと待って」
 男はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し2タップ。そして「あ〜」と舌を出した。
「もう終電無くなっちゃってるよ。今日は大学の友達とボウリング行って遅くまで飲んだからタクシーを拾う金もないし……そこら辺の公園で野宿だな」
「のっ、野宿!?」
「うん仕方ないよ。でも別に野宿が今日初めてってわけでもないし、大丈夫だよ。全然」
「いやいやいやいやいや!そんな!申し訳ないですからあの建物の3階で良ければ泊まっていってください!」
「え、いいの?」
「ノープロブレムです!小中の時代に男子の家に泊まったことも男子が家に泊まりに来たこともありますから全然気にしません!」
「いや、そういう意味じゃなくてさ、仮にも君は今さっきあんなのに遭ったばかりなんだよ?少しは疑ったりしないの?俺を」
「大丈夫ですよ」
 私はさっきまで円くしていた目をきゅっと細めて笑ってみせた。
「貴方は私を助けてくれたんですから、信用できると思っています。幸か不幸か、私は生まれてこの方15年1度も人に裏切られたことが無いんです。裏切り者第1号になったりしないでくださいね」
「そりゃ、うれしいことだね」
 男もどこかむず痒そうにほほ笑んだ。
「そんじゃ、お邪魔しようかな」
「はい。どうぞごゆっくり。あ、あと……」
「ん?なんだい?」
 私は右手の親指を上に突きたてた。
「恐らく家具が一式届いていると思うんで設置を手伝ってくださいね」
「それが目的だったか……」
 私の高笑いと男の苦笑いが雑居ビルの錆ついた階段に響いた。

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