ほのか達に連れて行かれた「ケーキ屋」は、その実「デザートの美味しいフレンチのカフェテリア」だったので、そこで昼食を済ませ、短くない時間をお喋りに興じて(いたのは女性三人で、龍弥はほとんど聞いているだけだった)、家に帰りついたのは夕暮れも近い時間に為っていた。
出迎える者はいない。
平均を大きく上回る広さのこの家には、龍弥と達也、深雪の三人で暮らしている。
正確に言うなら、龍弥がこの家に居候させて貰っている身だ。
母である、真夜が「一校に通うなら部屋を借りるよりも、深雪さんと一緒に暮らしなさいよ」と微笑みながら言ったのが原因で住まわせて貰う事に為ったのである。
勿論、自分の部屋も貰っているためプライバシーは守られている。
自分の部屋に戻り、着替えを済ませリビングで寛いでいると、程なくして、部屋で着替えを済ませた深雪が下りて来た。
素材は大きく進歩したが、服のデザインは百年前からほとんど変化していない。
今世紀初頭風の丈の短いスカートから綺麗な脚線を覗かせながら、深雪が近づいてくる。
深雪のファッションセンスはどういう訳か、家の中で露出が増える傾向にあり二人っきりの時は、過激さをも増すのである。
いい加減慣れてもよさそうだが、ここのところ随分と女性らしさが増して、龍弥としては嬉しさ半分他人に見せたくないと言う独占欲半分である。
「龍弥様、何かお飲み物をご用意しましょうか?」
「そうだね、コーヒーを頼む」
「かしこまりました」
キッチンへ向かう華奢な背中で、緩く一本に結った髪が揺れる。
水仕事をするのに、髪が邪魔にならない様に、なのだが、普段は長い髪に隠れている白いうなじが、襟首の広いセーターからチラチラと見え隠れして何とも言えぬ色香を醸し出していた。
ホーム・オートメーション・ロボット(HAR/ハル)が普及している先進国では、台所に立つ女性は(無論男性も)どちらかと言えば少数派になっている。
本格的な料理ならともかく、パンを焼く、コーヒーを淹れる程度の事に自分の手を使うものは、趣味でもなければほとんどいない。
そして深雪は、そのほとんどいない少数派に属している。
機械音痴と言う訳では無い。
友人が遊びに来た時などは、大体HAR任せだ。
しかし龍弥と二人きりの時は、決して手間を惜しまない。
ガリガリと豆を挽く音と、ブクブクとお湯が沸騰する音が龍弥の耳に小さく届く。
最も簡単なペーパードリップではあるが、旧式のコーヒーメーカーさえ使わないのは、何かの拘りあっての事だろう。
一度訊いてみたとき、そうしたいからです、という答えが返ってきた時は、自意識過剰ながらも嬉しかった。
「その時、ありがとう深雪の入れてくれたコーヒーが一番好みに合っているよ」と言ったときは、顔を真っ赤にさせて俯いていた事も記憶に新しい事だ。
「龍弥様、どうぞ」
サンドテーブルにカップを置き、反対側に回って隣に腰を下ろす。
テーブルのコーヒーはブラック、手に持つカップの中身はミルク入りだ。
「美味い」
賞賛に多言は不要だ。
その一言で、深雪がニッコリと微笑む。
そして、二口目を含む龍弥の満足げな顔を窺い見て、安どの表情を浮かべ自分のカップに口を付ける。
そのままコーヒーを嗜む二人。
どちらも、無理に会話を作り出そうとはしない。
相手が、自分の隣にいることが気にならない。
無言の状態が続いて間が悪い思いをする、と言う経験は、この二人の間では一度も起こりえた事が無い。
話す事ならたくさんある。今日は入学式だったのだ。
新しい友人も出来たし、何やら気がかりな上級生も登場した。
深雪は予想通り生徒会に誘われている。
思い出すことも、相談することも、一晩では足りないくらいにある。
だが、二人きりの家で、二人きりで隣り合って、ただ静かにカップを傾けた。
「すぐにお夕食の支度をしますね」
「そういえば、達也はどうした?」
「兄さんは、九重先生の所で済ませて来るそうです」
空になったカップを持って、深雪が立ち上がった。
深雪が伸ばした手にコーヒーカップを預けて龍弥も立ち上がる。
それから暫くして達也も帰宅し、いつも通りの夜が更けていった。