小説『午前0時の桜吹雪』
作者:武倉悠樹()

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 頭には、内側から頭蓋骨をたたき割らんとでもしているようなズキズキとした断続的な痛み。胃には、ボウリングの玉が縦横無尽に転がっているような鈍痛。視界はぼんやりと歪み、足元もおぼつかない体たらくであるにもかかわらず、意識だけはしっかりとしているのは、不運としか言えないだろう。
 数メートルの間隔で設置されている街灯が少々頼りない灯りで住宅街の夜道を照らす。そんなおぼろげな明るさを頼りに、俺はふらつく足取りで一歩、また一歩と自宅へと歩を進めていた。
 今日は少し飲みすぎたかもしれない。体中を苛む不快感に嫌気がさして、今更ながら後悔を覚える。だが、飲まずには居られなかったのも事実だ。
 酒の席での俺は終始虚勢を張り続ける事に専念していた。
「元々やめる気満々だったんだぜ。辞表も用意してたし。イヤ、ほんとだって」
 営業回りですっかり癖になった笑顔を全面に張り付かせ、早口で俺は続ける。
「それを向こうから言ってくれたんだ、気兼ねする必要もなければ退職金だって貰える。良い事尽くめさ。俺はついてるんだって!」
 俺が自由への門出の祝杯に付き合ってもらうべく、携帯のメモリーを片っ端からあたり、不運にもその電話を取ってしまったばかりに、はしごを含め3軒も付き合う羽目になってしまった酒井は、その強がりを聞いてどんな顔をしていたか。
 俺はどちらかと言えばアルコールに強い方だと思う。結構な量を飲んだとしても、気持ち悪くなったり、頭痛に見舞われることはあっても、理性のタガが外れたり、記憶が曖昧になったりといった類の酔い方はしない。だからあの時、俺の愚痴を聞きつつ「そうだな」と言った酒井の顔を、あの表情を、俺はきっと一生忘れない。いや忘れられないだろう。
 酒井は今日のような突然の呼び出しにも応じてくれるいい奴だ。「明日も仕事があるんだけどなぁ……」とぼやきながらも終電まで付き合ってくれた。そんな酒井が見せたあの、憐れみの目。見下すような目。
 あの時、酒井が俺のことをどんな風に思ったのかはわからない。心の底から見下していたんだろうか。そうは思いたくもないが。真面目で人の良さが評判の、弱々しい笑みを顔に張り付かせては自らを省みずに人のお節介をやくような、そんな酒井にあんな冷たい目を向けられてしまうような状況に俺はあるんだろうか。それとも真面目な酒井だからこその、あの反応なんだろうか。
 頭痛が苛烈さを増した。
 4月の半ば。桜の花もほぼ散り終えたかという時期ではあるが、夜はまだ少し肌寒い。にもかかわらず汗が止まらなかった。汗をぬぐう気も起きなかったので流れ出るままに放っておく。顎の先から地面へと垂れる汗を目に留めつつ、一歩。また一歩。
 右手には去年、就職祝いにと親父に買って貰った革の鞄。貰った時、テカテカとやたらに光沢を放つ新品の革の具合が正直あまり気にいらなかったのだが、そんな俺の様子を敏感に感じとった親父が言った言葉は今でも印象に強く残っている。
「若造が良い鞄を持つなんて生意気なんだ。この鞄が使い込まれて良い味になってくるころには、その鞄に似合う大人になってるんだよ」
 その日、珍しく深酒をして上機嫌だった親父は、そう言って笑った。
 仕事関係の書類は全部会社で捨ててきたから、中に入っているのはハンカチやティッシュといった身の回りの品や最低限の筆記用具、それと新書本程度のものだ。重いはずがあるわけのないその鞄が、強い力で指に食い込んでいる気がした。
 半ば足を引きずるようにして、一歩。また一歩。足元を一心不乱にみつめながら、自宅へと住宅街を進む。駅から徒歩8分程度のはずの帰路が途方もなく長く感じられた。
そこへ横から一陣の風が舞った。汗で濡れ、額へと張り付いた前髪をかき上げられて、ふと歩みを止める。顔を上げ、風が吹いた方向へと目をやると、そこには小さな公園があった。
1台のシーソーと、2脚のベンチ。そして、手狭な公園には不似合いな大振りの桜の樹が一本。それだけの公園だった。
「……少し休むか」
 切れ間のない頭痛も、重苦しい鳴動を続ける内臓も、全てが煩わしかった。それになによりこれ以上歩きたくなかった。
 車両の進入を防ぐ為の柵をまたいで公園の中に入ると、桜のたもとに設けられたベンチへと腰を下ろす。鞄を脇に放り、背もたれに体を預け、夜空を仰ぐ。薄雲の切れ間から覗く月光が、緑の増えた桜の樹を淡く照らしていた。
「夜桜見物にはなかなかいい所かもしれないな」
 時期はずれの呑気な考えがよぎり、枝にかすかに残った桜の花に目をやった。ほぼ緑に移り変わった枝に、僅かに残る薄い朱色の花びらがまばらに咲いている。だが、そのちぐはぐな色合いはお世辞にも綺麗とは言いがたいものだった。
「もう、すっかり葉桜か。そういえばおとといは雨だったっけ」
 夜陰の中に降り注ぐ仄かな月の光。その中に泰然とそびえる一本の桜の樹。その見事な枝ぶりに鮮やかな花を咲き誇らせ、夜に魅せていた華はさぞ綺麗だったのだろうが、その影はいまやみるべくもなかった。周りが散っていく中で、風雨に晒されても散る事無く残った花びらは、今は無残にも、茂る緑にのまれている。
 人々を魅了したそのピンクは、もはや緑の足並みを乱すものでしかなかった。
「散り際が大切ですってか」
 苦境に負けずに頑張っても、できることと言えば醜態を晒すことしか残されていないのだろうか。
 見上げた緑とピンクの視界が、にじんでぼやけた。
 入社して2年。第一志望の企業に入れたわけではなかったが、仕事に対してモチベーションを下げたことなんて一度もなかった。
 売り手市場なんて言われてはいたが、就活が楽だった印象なんてない。全体の求人の人数に対して募集が少なかったというのは事実なのだろうが、中小を含めた全体的な景気に信用が置けるなんて状況では、とてもなかった。
 大手や人気の企業なんかは結局目も霞むような倍率だったし、一流どころは当然の如く一流大学の名前で埋め尽くされていた。どこにも行くあてがないなんてことにはならなかったのかも知れないが、そんなような奴でさえ拾ってくれる企業が10年後、20年後に残っている保障なんてどこにもない。
 だからこそ頑張った。それしかないと思った。
 当たり前のように要求される残業にも根をあげなかったつもりだ。そんな様がアイツには気に食わなかったんだろうか。理不尽なものに泣かされる事なんて世の中の摂理だ。そうやってわかったつもりで居た自分が、無様で仕方が無かった
 俺ももう子供じゃないんだ。俺は社会人なんだ。そんな言葉で幾度も自分を鼓舞したし、慰めたし、騙してきた。
「あの時、俺はどうすればよかったのかな」
 口にするつもりもなかった想いが思わず言葉になってこぼれた。頬をつたっていた涙をぬぐう。
 脇に放り出した鞄から、カバーの掛けられた新書本を取り出す。大型書店の真新しいカバーを外し、あらわになった本の表紙に目をやった。
『嫌な上司と付き合う30の法則』と銘打たれた表紙を見る。やりきれない気持ちが、自虐的な笑いになってこみ上げてきた。
「この本、ぶつけてやりゃ良かったかな」
 無用の長物と化したビジネス書をどうしようか考えていると、隣のベンチの脇にゴミ箱を見つけた。もう一度表紙に目をやる。ゴミ箱までの距離は目測で10メートルほどだろうか。
「入るかな」
 バスケなんてやったことはないが、自分の中の雰囲気でフリースローの構えを取る。なんとなく入る気がした。
 自らの手元から、10メートル先のゴミ箱へと迷いなく伸びる放物線を頭で描き、それをなぞる様にして――投げた。
 綺麗な縦回転が掛かり、緩やかな放物線を描いて本はゴミ箱へと、吸い込まれていきはしなかった。力をこめすぎたのだろうか、手を離れてまもなく、本が開きパラパラとページがめくれる。不安定な形に変形し、空気の抵抗をまともに受けると、ゴミ箱から数メートル手前の地面へとむなしく落ちた。理想の放物線を描いたイメージは、現実のものへと容赦なく書き換えられる事になった。
 無残に捨てられた本を見て、一瞬このままでもいいかと少し思ったが、やはりちゃんとゴミ箱に捨てることにした。膝に手をあて、腕の力で自らを押し上げるように立ち上がる。このままではポイ捨てになってしまうという罪悪感よりも、あの本が捨ててあるのを誰かに見られたくないという情けない羞恥心が勝った。
 表紙を上にして地面に落ちている本を拾おうと近づき、身を屈めたその時、また風が吹いた。屈んだ体を後ろから追い抜くようにして吹き抜けた春風は、その勢いで地面に散らばった無数の桜の花びらを巻き上げた。
 ゴクリッと喉が音を立てたのをはっきりと聞いた。
 無意識の内に息を飲んだ。そして無意識の内に息を飲んだ自分を意識できた。刹那と呼ぶのが相応しいくらいの僅かな時間ではあったが、その瞬間、世界はありとあらゆるしがらみから解き放たれて、止まっていたように感じた。
 目の前の光景はあまりにも綺麗だった。花びら達が爽やかに吹きぬけた春風に乗り、視界を埋めつくさんばかりに再び咲き誇っている。いつの間にか雲が晴れたのか、柔らかく差し込む月の光が夜の闇に暖かなピンクを浮かび上がらせた。
 一度は散った花びら達が魅せる一瞬の桜吹雪。
 日付も変わろうかという、見る人もない時間。夜桜といっても、しっかりとしたライトアップの設備があるわけでもないし、強い風が舞った後のほんの数秒間限りの出来事だ。しかし、いやだからこそなのかもしれない。その絶景は、太陽のもとで咲き乱れる満開の桜と比べても決して見劣りすることはないだろう。
 そんな光景に、一度は止まった涙が再びこぼれた。
 程なくして風が止み、夜に見事な桜吹雪となって舞い上がった花びら達は大地へと還っていき、そして、再び路傍のゴミとなった。
 俺は、本を拾うことも忘れて立ち尽くしていた。
 どのくらい呆然としていたか。蒼い煌めきを投げ下ろしていた月は雲の裏側へと姿を隠し、肌寒さの残る変哲のない春の夜が再び顔を覗かせる。
 腰を屈め、本を拾うと表紙に付いた土埃を簡単に払いながら、ベンチへと戻る。ベンチに腰を下ろすと、書店のブックカバーを一度は捨てた本にかけて鞄にしまった。
 相変わらず頭はズキズキと痛み、鳩尾の下辺りに残る不快感も振り払えたわけではなかったが、目を瞑り、一度大きく息を吸い込み、そして深く長く吐いた。肺に残った酸素を全て出し切り、数秒間呼吸を止める。そして目を開け、立ち上がった。右手にはテカテカと光沢を放っている、真新しさの恥ずかしい鞄。依然、手にずしりと重みは感じたが、それでも少し、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
 ベンチを後にし、出口の柵付近まで歩みを進める。ふと振り返ってもう一度桜の樹を仰ぎ見た。来年は満開の桜を見に来よう。少しだけテカらなくなった鞄を持って。要らなくなるほど読みこんだ本を捨てに来よう。
 3度目の風が吹いた。微かな強さだったのでもう花びらを巻き上げることはなかったが、その風は追い風だった。
 背中をほんの少し押されて公園を出る。まずは家に帰ろう。
 俺は今日、無職になった。



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