小説『ハート・ファイルール』
作者:さめビデオ()

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「猿のように器用なやつだ」
 老人は慣れない英語で何度か言い間違えたりつかえたりしながら言った。その言葉はある種の慣用句のようにピタリと並び、いつまでも僕の記憶に残っているのだ。


 もうずっと昔、僕がまだ映画制作会社の使い走りをしていた頃にフランスに出張したことがある。映像作品に必要な音声素材を採取するためだ。僕は音響の専門ではなかった。マネージャーや、ザックリとした大きな括りでの現場監督として、チームに製作サイドの意向を伝えたりした。
 取材予定日当日に雨が降った。機材は水に弱く、その日の仕事は予備日にずらす判断をした。僕は朝のうちにホテルから電話をして、現地協力者にその旨を伝えようとした。しかしダイアルを回しても、どういう訳か電話は繋がらなかった。試しに支配人が近所の商店に掛けてみると、そちらには問題なく繋がった。
「断線か或いは、相手方の受話器が上がっちまってるだけかも知れん。用があるならウチのトラックを貸してやるから、アンタ行ってきたらいいよ」
 僕は支配人の言葉に甘えた。特に自分以外に人手が必要だとも思わず、一人で出かけることにした。

 トラックは古かったが、毎日のように動かされていて調子は良かった。石造りの低い建物が弱い雨に煙る村を抜けて、僕は農場を目指した。車で一時間。広大な畑の広がる田舎では、遠い距離という内には入らない。エンジンの音と、道の凸凹でトラックが震える音だけを聞いて僕は運転した。ラジオやカセットテープは、それがトラックに付いているのかも気にならなかった。
 目的の大きな納屋に着く。もしこちらの建物に人がいなければ麦畑を一つ超えて母屋のほうを訪ねなけれればならなかったが、その必要はなかった。僕がジャケットで頭を覆って雨を凌ぎながら納屋の側面の小さな扉の前に立ったとき、それは内側から開いた。
 Tシャツにオーバーオールと、底の広い農作業(ペコス)ブーツを履いた老人が、僕を迎えてたどたどしい英語で言った。
「やぁ紳士、今日はどんな具合かね」

 ちょっとした飛行機の格納庫のような納屋に入ると、僕は置いてあった木箱の上に上着を広げてのせた。それからなるべく単純な言葉を選んで老人に言った。僕もそれほど英語は達者じゃない。
「仕事の日をずらしてもよいだろうか」
 老人は、ちっとも意外だという表情はしなかった。
「オレも、とび上がるなら晴れた日がいい」
 老人は二度、深く頷いた。ゆっくりと少しだけ、老人の気分は良いほうに傾いたように見えた。
「オレとコーヒーを飲め」
 老人は親切に言った。語彙の持ち合わせが少ないだけだ。

 納屋の中は暗かった。膨大な空間の一角で、僕は木でできた背もたれのない簡単な椅子に座った。老人は壁際の巨大な工具箱のような棚から、コーヒーセットを取り出して作業にかかった。
 キッチンと洗面所に必要なものの一式が壁に据え付けられていたが、それらを隔てる仕切りのようなものがまったくなかったので不思議な絵ヅラになっている。
 僕は老人の作業を薄闇の中でぼんやりと眺めていた。蛇口付きの保水缶からポットに水を満たし、壁際の三口コンロに火をつけて据えた。ガスチューブは庭に出しっぱなしの水やりホースのようにどこかへ這って伸びていた。
 − ガスコンロ?
 老人が湯と粉をプレス筒に移し、ゼンマイ式のタイマーを正確に回して置き、作業が段落にきたところで僕は聞いた。
「ここで火を使っても平気なのか」
 老人は一瞬理解に窮したが、すぐに気がついてたしなめた。
「ジェット戦闘機が(老人はガス・ファイターと言った)置いてある訳ではあるまい」
 そう言って薄闇の端まで歩いていき、何かの仕掛けのコーヒーミルよりずっと大きなハンドルに手をかけて回した。金属が緩く擦れ合う音が続き、溜っていた空気がゆっくりと流れを作る気配がした。巨大な空間の天井の端にある窓の鎧がめくれ、水に顔料を溶いて垂らすように淡い光が忍び込んできた。
 その光を受けて、大きな輪郭が端から少しずつ姿を現す。老人が言ったように、確かにここにはジェット戦闘機はない。あるのは一機のプロペラ戦闘機だ。無骨な乗り物に見入っていた僕の後ろで、タイマーがヂリンと短く鳴った。

 僕たちの音響チームは、この飛行機の音を採取するために外国までやってきたのだ。製造50年、諸々手直しをされて、今は農用機として現役にある。コーヒーを飲みながらかなりの高さがある機体を見上げ、僕は老人に聞いた。
「こいつはどんなファイターだったのか」
 老人は時折言いよどみながらも、手頃な形の言葉を並べた。
「猿のように器用なやつだ。熊のようにタフでもある」
 この機体は状況に合わせて実に色々な銃器や爆弾を抱えて飛べるし、当時の戦闘機の中では屈強な部類だ。そしてやや小振りである。僕は予備知識としてそれを知っていたけれど、実際に目の当たりにすると、博物館の展示品にはない働きながら老いるものの説得力に体が硬張った。戦うことはとうの昔にやめ、握ったこぶしを解くように幾つもの部品を外された今の姿でも。

 僕は老人に、その飛行機について色々と質問をした。運用に手間のかかるはずの戦闘機は、撃ち合いに使う部品や長くタフに飛ぶための部品を全て降ろした後では別物のように軽く、そして単純な乗り物になるらしい。エンジンのシリンダーも何発か封をしてしまい、質の良くなった通常の航空ガソリンで十分に飛び上がり、降りてこられるのだそうだ。他にも細かい改造は無数にある。引き込み輪は油圧器を外して垂らしっ放しにしたり、種蒔きの装置を空いた隙間に取り付けたり、とにかく色々だ。
「戦争のゴミだ。一生乗れるだけの部品くずを集めても、身内で直せば新しい農用機を買うよりずっと安い」
 老人はそう言った。

 飛行機の横で3杯目のコーヒーを飲みながら僕は老人に聞いた。
「元のパイロットとは面識があるのか」
 老人は微かに眉根を詰めて鼻から長く息を抜いた。
「5・・・いや、6年前までそいつと替わりばんこで種を蒔いた。具合が悪くなって、一昨年に死んだ」
 老人は僕のほうに上体を向けると軽く握った手からはみ出た親指の先で自分の胸を指し、そのまま黙っていた。僕は老人が目的の単語を見つけてくるまで辛抱強く待った。
「・・・ハート、ストップ」
 間に合わせに切って貼られた言葉だった。僕は少しの間目を閉じてから開き、老人に言った。
「ハート・ファイルール、そう言うらしい」
 心不全だ。死んでしまったパイロットは老人にとって無二の存在であったことが、何を介するでもなくただ伝わってきた。
「ハート・・・ファイルール」
 老人はゆっくりと発音を試した。それから飛行機の方に向き直って遠くを見るようにやや顎を浮かせ、こんどは自分にしか聞こえないほど小さな声でもう一度呟き、それから喉の奥で低くうなった。
 僕と老人は飛行機を眺めながら、もう喋らずにコーヒーの残りを飲んだ。


 その後日の取材や、前後のフランスでの出来事はあらかた忘れてしまった。ささやかに出世すると自分が外国まで仕事に行くようなこともほとんどなくなり、もちろんその老人とも二度と会っていない。老人がまだ空から種を蒔いていると考えるには、今はもう時間が経ちすぎている。
 僕は何とはなしに、あの薄暗い納屋の中で老人の飛行機は今でも万全に近い状態にあって、ただ誰もエンジンを回してやらないでいるような、そんな気がしている。

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