「……それで?」
目の前に座る女性がタバコの煙を吐き出す。
この人は北見綾芽。
瑠樹の母親で、瑠樹に傷を負わせた張本人だ。
瑠樹曰く、「アヤメさんのことは恨んでない、退院したらいつも通り家で暮らす」らしいが
あんなに痛々しい虐待の跡を見た私はそれを許すわけにはいかなかった
「…どうして瑠樹に暴力を振るうんですか」
アヤメさんが軽く灰皿の淵にタバコを押しつけ、火を消した
「…そうね、正当な理由はないわ」
「それじゃあ何で!?瑠樹は貴女に優しくして貰いたいとずっと願ってるんですよ!」
「貴女にアタシと瑠樹の何が分かるのよ」
アヤメさんの苛立ちの籠められた視線に思わず怯む。
『鞠愛には分からないだろうね。』
同じことを瑠樹にも言われた
「知ってるわそんな事くらい…娘だもの」
アヤメさんが机に肘をつき、ポケットから静かにタバコを取り出す。
『アヤメさんはちゃんと分かってるから、…あたしが特殊?はは…それ言われちゃ弱いかも』
瑠樹がアヤメさんを庇うような事を言ったとき、
私は虐待に馴れてしまったからそんなことが言えると思った。
でも違った。
この親子は誰よりもお互いを理解をしているのに、ずっと歩み寄れないでいる。
それって、毎回どちらも滅茶苦茶傷付かなきゃいけないんじゃ…
「どうしてですか…?瑠樹をちゃんと愛してあげてください」
「愛せるのなら愛してるわよ!…でもアタシには愛し方なんか知らない、
どうやって瑠樹ちゃんを受け止めてあげれば良いのか分からない、」
(愛し方を、知らない…?そんな、アヤメさんだって家族に愛されてきたはずなのに)
私の不穏な表情を憎し気に睨み、
アヤメさんは話し出した
「アタシは実家で育児放棄を受けてたわ、食事もお金も1人で管理をしなきゃならなかった。」
「妹が病気で、両親がずっとそっちに構っていたのよ、産まれたときから妹は両親に過度なほど心配されてた。…アタシは取り上げられてすぐ手術台で放っておかれたらしいわ」
アヤメさんは他人事のように平然として言い、口を歪めて笑った。
「…そんな酷い話、」
「酷い?…」
アヤメさんは狂ったように宙を見上げて高い声で笑う
そして可笑しそうに私を凝視した後、ハッキリと口にした。
「…北見サツキ、」
「それがその妹の旧姓よ」
アヤメさんは短い髪をさばさばと掻き上げ、タバコの箱を握り潰した。
ぐしゃりといとも簡単に紙の箱は折れ曲がる
「そ、それって…」
「そう、柏本サツキ…あなたの母親がアタシの人生を滅茶苦茶にした、
両親に構って貰ったことなんて無かったわ」
「口を開けば喧嘩ばかり、ちょっとでもサツキの悪口を言えば殴られた。……そんなことしたらもっと恨むに 決まってるのに」
私はアヤメさんの顔も見ることが出来ないまま、ただ頭を下げた
「…すみませんでした」
「別に貴女がやったわけじゃないから何も思ってないわ」
「でも、…」
「そうね…貴女とサツキは似ているわ、容姿も言う事も瓜二つで一瞬サツキが家に来たかと思ったわよ、
貴女を見ているとイライラする」
アヤメさんは私を追い払うように手を扉の方に振った
「あの…母はもう死んだんです、私を産んですぐに…」
「それくらい知ってるわ、病院にアタシも居たもの…子供を産むなんて無謀だって言われてたわ…もっとも、アタシは葬式にも呼ばれなかったのだけど」
「そもそも祥二さんとはアタシが付き合ってたのよ。子供がなかなか出来なくて家に別れろって言われたの、その時祥二さんはサツキと付き合い出してたわ…アヤメの恋の手助けをする何て言って、結局サツキはアタシから祥二さんを奪っていった…その二人の子供が貴女よ」
「瑠樹は…、」
「瑠樹ちゃんはアタシと祥二さんの子供よ、婚約破棄の当日にデキたって分かったわ……
もう、全部手遅れだった…」
アヤメさんは自嘲するように軽く表情を歪めて笑い、『出て行ってちょうだい』と私に言った
「よく…瑠樹を産もうって思えましたね」
「貴女には分からないでしょうけど、アタシは瑠樹ちゃんをこれでも精一杯好きでいるつもりよ」
「…瑠樹を抱き締めて好きと言ってあげて下さい。きっとアヤメさんは瑠樹と和解できるはずですから」
この人は、本当に瑠樹を愛している
その愛情を歪めてしまったのは北見家とお母さん、そして私とお父さんなのだろうと思う
けれど、育児放棄と言っても暴力を振るわれていたとは言っていなかった
多分これはアヤメさん自身の問題なんじゃないかと思う
「和解…ね、アタシも最初は絶対にアタシみたいな思いはさせたくないと思ってたわ、でも…無理だったの」
アヤメさんがテーブルの方に顔を伏せる、一滴の涙がアヤメさんの頬から伝っていった
「瑠樹ちゃんが、幸せになることが…許せなかった。アタシに一生出来なかったことを瑠樹ちゃんはアタシとしようとしてると思うと、全部…壊したくなった」
「瑠樹ちゃんは、アタシと祥二さんの繋がりの…祥二さんしか…要らなかったはずなのに、サツキが…また…だったら瑠樹ちゃんなんか要らなかったから…祥二さんが…」
感情が高ぶっているのか、アヤメさんは急にボロボロと泣き出し、言語も怪しくなっていった
「帰って…、」
掠れた声でアヤメさんが呟く
凄まじいばかりの視線に、私は怖じ気づき、椅子から立ち上がってマンションを出た
暫くしてマンションから悲鳴のような叫び声とガラスが割れる音が響いた