小説『Life Donor』
作者:bard(Minstrelsy)

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【第一章:狭間の部屋】



 死んでしまおう、と彼は決意していた。
 別に、あの世の存在を信じている訳ではない。天国も地獄もただのおとぎ話だ。前世も来世も無い。神や仏も居ない。死んだら終わり。消えてなくなる。
 魂の存在など、彼は信じていなかった。心をそれらしく言い換えただけで、その心も言ってしまえば脳の活動に過ぎない。脳の機能が停止すれば、心もなくなる。魂など欠片も残らない。
 だから、と彼は腕に力を入れる。橋の欄干を乗り越えるために。その向こう側へといくために。
 自殺が大罪だとか地獄行きだとか、訳知り顔で話す奴は多い。ただの下らない道徳観を大袈裟に言っているだけだろう。押し付けるな、と彼は思う。
「思春期特有の物思いか」
 嘲笑するような声。以前なら食ってかかっただろうが、今の彼にはどうでもいい事だった。聞こえない、と無視をする。
「ここまで進むと病気だな。ある意味、死に至る病と言える。いや、そのものか」
 相手は構わずに話しかけてくる。わざと神経を逆撫でしているかのようだった。聞こえてくる忍び笑い。それが、彼がここに来る原因となった連中を思い出させる。
「おや、何か嫌な事でもあったのかい」
 彼の心境を見抜いているのだろうか。たまらず、彼は言い返す。
「一体何だよ、さっきから」
 だが、振り向いた先に人影はなかった。幻聴か。死を前にして自分はおかしくなってしまったのだろうか。
「自ら命を絶とう、という時点で十分におかしいと知るべきだな」
 幻聴ではない。確かに聞こえた。誰だ、と声の主を探す。周囲を見回す彼を鼻で笑い、それは欄干に飛び乗った。
 鳥。カラスだった。
 だが、少し奇妙な姿だ。広げた翼の先だけが、縁取られたかのように白い。まるで刃物のようだ。ペンキに触れたとか何かで汚れたのではなさそうだ。まさか、このカラスが喋ったとでも言うのだろうか。彼はしばし、その鳥を見つめていた。
 カラスは羽繕いをした後、じっと彼を見返した。そして緩やかにくちばしを持ち上げると、一歩、彼に向かって踏み出した。彼は思わず後ずさる。
「何を怯えているんだ。鳥が怖いのか」
 間違いない、こいつだ、と彼は確信する。
「オウムは喋るって知ってるけど、カラスも喋るのか。それとも、手の込んだドッキリか?」
「安っぽい発想だな。そんなものと一緒にするのは止めて貰おうか」
 カラスは不愉快そうにそう言うと、身体を震わせた。膨らんだ羽根が、異様な姿を際立たせる。
「俺に何の用があるんだよ」
 驚く事すら止めた彼が問い掛けた。カラスは彼に向き直り、口調を改めて答える。
「君の命は七十三年残っている。より正確に言えば七十三年六ヶ月二十四日九時間十九分三十八秒〇六。今ここで引き返せば、その時間の生存は確定される」
 その言葉を聞いた彼は冷ややかだった。
「そんなにも長い間生きろって言うのか? ――でたらめな数字をもっともらしく並べて、それで俺を引き止めているつもりなのか。寿命なんて、長生きなんて何の意味も無い。別に俺がどうなろうと、関係無いだろ。生きていようが死んでいようが、お前もあいつらも、どうだって良いはずだ」
 彼は欄干に乗り上がる。かなりの高さだ。眼下には岩場が広がっている。落下すれば、まず命は無いだろう。彼にとっては好都合だ。
「いやいや、少し待ってくれないか。話はまだ終わっていない」
 押し留めるように翼をばたつかせ、カラスは言った。
「これ以上何の用があるんだ。引き止めようって――」
「別に私は引き止めている訳じゃあない。取引をしようと言いに来たんだ」
「取引?」
 彼は踏み出しかけた足を戻す。
「そう、取引だ」
 カラスは大仰な仕草で翼を広げる。
「君の余命を貰いたい。その代わりに、君の願いを叶えよう」
 この期に及んで使い古された誘い文句か、と彼は呟く。これから死ぬ人間に、何の願いがあると言うのか。
「世界を滅ぼすとかタイムスリップとか、さすがにそういうのは叶えられないが。例えば、そう、復讐なんかは叶えてあげられるよ」
 復讐。その言葉に、彼の心が揺らぐ。
「本当なのか、それ」
 心のなかにくすぶる、暗い炎が言葉を焼く。
「ああ、勿論だ」
 カラスの翼が、死神の鎌のように広がる。
「俺と同じ事をしてやれるのか」
「勿論だ」
「それより、酷い目も」
「可能だ」
「殺す事も、出来るのか」
「出来るさ」
 彼の問いに、カラスは即答する。造作も無い、と表情は変わらないが微笑んでいるかのようだった。
「まあ、気が変わる事も多いから、願い事は今でなくとも構わない。だが、取引に応じるか否かは今決めて貰わなければならない。決められるのは一度きりだ。さて、どうする?」
 彼は沈黙する。
 足下の景色が揺らめく。幻のように、誘うように。逡巡する思考を引きずり込むように、冷たい空気が頬を撫でる。
 彼は飛び降りた。橋の、内側へ。彼の目線が、カラスと同じくらいの高さになった。
「取引成立、という解釈で構わないか」
 握手はできないが、と言うカラスに彼は頷いた。
「感謝するよ」
 では行こうか。その声がこだまのように響き、景色が水面のように歪んだ。

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