小説『Life Donor』
作者:bard(Minstrelsy)

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「日頃の不摂生が祟ったのかもな」
 仕事を優先していた、と松川裕行(まつかわ ひろゆき)は寂しげに笑っていた。
 折からの不況で人が減らされ、仕事ばかりが増える日々。家族を気にかける余裕も無かった。口を利けば健康の事ばかりを言われる。うんざりしていた、と松川は言った。
「けれど、全部自分のために言ってくれてたんだな」
 過去の自分を見ながら、松川はそう呟く。解っていたはずだった、と後悔を滲ませながら。
 優しさや親切、相手への思いやり。その全てが感謝されるとは限らない。ありがた迷惑という言葉もあるくらいだ。それに、行き過ぎればお節介にもなる。難しい、とシジマは改めて思っていた。
 相手のためとは一体何なのか。結果的に相手のためになっても、当人が自分のためと認識していなければ意味が無い。シジマは松川に問い掛けた。何が相手のためなのか、相手のためとはどういう事なのか、と。あなたのためだ、そう言われ続けた日々を思い返しつつ。
「相手の人生を良い方向へと導く事だ。そうすれば、きっと、良い人生が送れる」
 良い方向に進む事は疑いなく相手のためとなる。正しく生きていけば、当人の人生も良いものとなる。
「部下がこちらのアドバイス通りに仕事をしてくれた時、娘が良い学校に言ってくれた時、本人たちが良い方向へ進んだと思ったよ。最終的には本人のためになった」
 それはエゴだろう。指摘したのはカクリだった。
「あなたが上司だから、父親だから、彼らは従ったのかもしれません。部下の方には他に良い方法が、もしかしたらあなたのアドバイスよりも良い仕事が出来たかもしれない。娘さんも、本当にやりたい事や学びたい事が他にあったのかもしれない。あなたが彼らの可能性を摘んでしまった、とは考えられませんか?」
「確かに、何を良いとするかは個々人で違うだろうが、従ってくれたのは彼らも良いと信じてくれたからだろう。上司や父親でも、良いと思わなければ従ってくれはしなかったはずだ」
「だとしたら、あなたへのアドバイスは、あなたにとって良いものではなかった訳ですね」
「それは違う」
「実際、あなたは相手のアドバイスに耳を傾けていません。あなたと同じく、あなたを良い方向へ導くために、あなたのために言われたものなのに。それは何故ですか?」
「だから、その報いでここに居るのだろう」
 話を聞かず良い方向に行かなかった証拠だ、と松川は嘲笑する。
 二人の言葉は激しくはないが、心を刺すようなやり取りだった。
 松川の心情はシジマにも理解出来る。それが正しいと解っていても、素直に聞けない事だってある。良薬口に苦し、だ。松川にとって、健康を気遣う言葉がそれだったのだろう。
 ただ、カクリが指摘しているのは、それとは意味が違う。自分の信じる良薬を、相手のためと押し付けていた事が問題だと言っているのだ。確かに、口にした松川にとっては良い事だった。だが、相手はどうだったのか。それは本当に良かったのか。
「良い方向って、良い人生って、何ですか」
 思い至ったと同時に、疑問が口をついて出た。
 彼の言う事が、相手のために言う事が本当に良い事ならば、とシジマは思う。あなたのためと繰り返されるそれに従っていれば、自分は彼の言う「良い人生」を送れたのだろうか。理解できない、と心のなかで呟く。従わなかったらから、自分は良い人生を送れなかったのか。そうだとすれば、松川の言う通り、それを聞かなかった報いでここに居るのだろう。
「普通の、当たり前の幸せを手に入れる事だ」
 松川はシジマの疑問に答え、こう付け加えた。
「生きているだけで、人生は良いものだ。生きるという、それ自体が当たり前の幸せになんだと私は思う」
 シジマは目を伏せる。彼にとって、人生なんて良いものではなかった。良いものだったら、自殺など選ばなかった。これは、松川の信条なのだろう。押し付けられている訳ではないが、嫌な息苦しさを感じていた。もしも彼が自分の身近に居て、こうやって自分を諭していたならば、自分は死なずに済んだのだろうか。
「生きる事そのものが幸せ、ですか」
 シジマの肩に手を置きながら、カクリは松川を見据えた。
「あなたは、幸せでしたか?」
 カクリの問いに、松川はしっかりと頷いた。
「良いって、何だろうな」
 松川を見送った後、シジマはカクリに訊いた。松川の思いは理解したが、得心は出来なかった。
「シジマは何が良いと信じる?」
 ティーカップを手にしながらカクリは首を傾けた。
「少なくとも彼を生かす方が良いと信じたから、君は決断を下したのだろう?」
「それは、そう、だけど」
 松川に与えた余命は八年。彼が手にしていた時計は、盤面に子供の描いた絵があった。誕生日に子供達から貰ったものだ、と松川は目を細めながら言っていた。
「だったらそれが良い事なんじゃないのか」
「俺が訊きたいのはそういう事じゃなくて……」
 カクリは薄く笑う。
「何が良いか悪いかなんて、全ては相対的さ。あっちよりは良い、こっちの方が良い、その比較の繰り返しだ。その人が絶対的と信じるものさえも、比較の結果得られたものであり、また別のものを比較する時の基準にもなる。絶対に良い、絶対に悪い、そんなものは無いんだよ。だけど、絶対のものを求めて、ずっと比較をし続ける」
 不安だからだろう、と彼はカップを傾けた。
「誰かと比べて、何かと比べて、自分が上だと思いたい。負けたくないし、自分がみじめだと思いたくないからね。絶対が欲しいのも、それが理由だろう。もし負けたと感じる事があっても、絶対のものがあれば揺るがないし、負けではない。それどころか、相手を見下す理由にさえなる」
「相手を、見下す?」
「絶対の価値観を持たない哀れな奴、とかね。それさえも比較で得られたものなのに……根拠の無い優越感さ。そうやって相手を下に見て、際限なく下の存在を作り出し求め続ける。理不尽な基準で無理矢理に貶めてまでもね」
 誰が上で、誰が下か。結局はそうやって序列を付けたがるものなのだ、とカクリは茶を含む。彼の言葉にシジマは嫌悪感を覚え、ごまかすように彼もカップに口を付ける。
「誰もが平等だと言いたいのかい」
 飲み下す茶が、酷く渋く感じる。
「平等なんて、不可能な幻想だよ。富める者とそうでない者、権力のあるものとそうでない者、持つ者と持たざる者は必ず発生する。それが世の常だろう」
「だけど人権は平等だって、先生は言ってた」
「人権、ね。まあ、先生が言うのなら、正しいのかもしれないね」
 言葉とは裏腹に、カクリは微塵もそう思っていないようだった。
「その人権とやらが平等かどうかも、時と場合と相手によるだろう。平等に扱うという意識が双方にあって、平等のレベルが同じ場合なら成立するだろうね」
 本当の意味で人権が尊重されていれば、戦争は起きないだろう。そう言い切るカクリは超然としていた。
「そんなの極論だろ」
「かもしれないね。まあ、極論ついでにもう一つ」
 散々言い尽くされているけれど、と彼は空のカップを手の中で転がした。
「唯一平等だと言えるのは、生きとし生ける者はいずれ死ぬって事だけなんだよ」
 全てを受け入れ、全てを否定する。そんな微笑みが存在する事を、シジマはこの時に初めて知る事となった。

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