小説『Life Donor』
作者:bard(Minstrelsy)

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 秒針の音が、唐突に戻ってきた。
「あれ、俺……」
「お目覚めか、シジマ」
 声の方に顔を向けるが、彼の姿がよく見えなかった。何故か視界がぼやけている。その答えは、頬を伝う生温かさで解った。
「泣いているのか」
 指先で目元を拭うと、小さな雫が落ちた。机を見ると、その痕跡が滲んでいる。どれくらい泣いていたのだろう。いつからこうしていたのだろう。シジマは暫し、雫に目を落とす。
「夢を見ていたらしいな」
「え?」
「気が付いたら眠っていたからね。起こすのも悪いと思って、そっとしておいたんだ」
「今まで夢なんて……それに、飲んだのはコーヒーだ。眠くなるなんて、有り得ないはずなのに」
「何でだろうね。それよりも……ほら」
 涙を拭け、とカクリがハンカチを差し出す。シジマは素直にそれを受け取り、顔を濡らすそれを拭った。
「コーヒーは止めた方が良いか。少し待っててくれ」
 カクリは優しく微笑み、部屋の奥へと消える。
 ぼんやりとハンカチを握りしめたまま、シジマは虚空を見つめていた。秒針が少しずつ、生々しい記憶をぼかしていく。
 あの夢は、自分の過去だ。死のうと決めた自分の姿だ。
 思い出したくなかった。夢でさえも、もう一度見たくないと封じ込めていた光景だった。
「お待たせ。少し、気持ちを落ち着かせた方が良いだろう」
 差し出されたのはカモミールティーだった。優しく甘い香りが、シジマの心を解きほぐす。
「見ていた夢だけどさ」
「ん?」
「俺が、死のうと思った時の夢だった」
 シジマは暖かな香りを傾けながら、彼を見る。
「それで泣いていたのか」
 ブランケットのような声でカクリは言う。穏やかな微笑み。慰めるような事は言わないが、静かにシジマの言葉を受け止めていた。
 シジマは曖昧に頷く。甘い香りに、乾いたはずの涙が落ちる。波紋を作るそれを呆然と見送りながら、彼は思う。これ程までに泣いたのは、果たしていつの事だったろうと。
 あの地獄だった日々。最初こそ泣いていたが、いつしか涙は出なくなっていた。辛さや苦しさを感じなくなった訳でも、それに慣れてしまったからでもない。ただ、泣けなくなっていたのだ。
 静かに涙は流れていく。シジマはカップを置き、両手で顔を覆った。
「シジマ?」
 足音が戸惑うように近付いてくる。
「そんなにも、辛かったのか」
「……もう二度と生きたくない。あんな思いをするくらいなら」
「そうか」
 背中に置かれる体温。感情が堰を切ったように溢れ出した。誰にも言えず奥深くに沈めた思いが、嗚咽となって部屋に響く。震える背中を、カクリが子をあやすように撫で続ける。
「気が済むまで、泣けば良いさ」
 殺せなかった声が、指の隙間から漏れる。
 他人の体温は、こんなにも暖かく安らげるものだったのか。いつだって自分に触れる体温は、氷よりも冷たく心を刺し、岩よりも厳しく身体を叩くものだった。
 生きていた時には得られなかったその温もりに、シジマは暫し身を任せた。

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