小説『Life Donor』
作者:bard(Minstrelsy)

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「ずっと抱えていたんだな。独りきりで、ずっと」
 カクリが淹れ直したカップを置きながら言う。新しく淹れなければ塩辛くて飲めないだろう、そうカクリは笑った、彼なりに元気付けようとしているのだろう。
「誰にも、言えなかったから」
 湿ったハンカチから顔を離し、シジマは頷いた。それをカクリはポケットに戻し、シジマの顔を覗き込む。
「少しは落ち着いたか」
「うん……何とか。その、ごめん。泣いたりして」
「謝る事は無いさ」
 礼を言うよりも先に出るのは謝罪の言葉。今更ながら、自分の歪な処世術に陰鬱な気持ちになる。
 カクリは何事も無かったかのように、悠然とソファで微笑んだ。シジマの中に忘れていた感情が蘇る。彼は少しだけ表情を緩め、カップに口を付けた。カモミールの香りが立ち上り、優しく心を包み込む。
「泣いたら、何となく楽になった気がする」
「そうか。それは、良かった」
 客人の来る気配は未だ無い。もうしばらくゆっくり出来る。カクリはそう言って笑った。
 以前は拷問だと感じた空白の時間だが、今は心地いい。シジマは初めて、安堵の息を吐いた。
 生きていた時の、寸刻みで心を潰されるような日々。本当に安心して居られる場所は無かった。生まれて初めて――否、死して初めて得られた安寧とでも言おうか。こんなにも安らいだ気持ちを得られるならば無理をして生きる事は無い、とさえ思える。
「こうやって泣いたのは、随分前だった。死のうと思った時でさえも、泣けなかった」
「そうか」
 我慢する事に慣れていたのだろう。いつしかそれが当たり前になり、自分の気持ちさえ感じられなくなったのだろう、とカクリは優しい声で言う。
「怖くて、悲しい事だと思うよ」
 身体よりも先に心が死んでいく。それを絶望と言うのだろう。死んだ心は僅かな光さえ感じられない。底無しに落ちてしまえば、身体も生きる気力を失っていく。本当の絶望は、死ぬ事しか出来ないのだ。
「立ち直れるうちは絶望なんてしていない。だけど、心が死んで壊れてしまったら、人は生きていけない。シジマは……限界だったんだろう」
 カクリの言う通りならば、自分はどうしようもなく絶望していたのだろう。気付かぬうちに心は死に、身体さえも生きる事を諦めた。けれども、そのまま朽ちていく事は出来ない。だから唯一残された力で、自分自身を殺すしかなかったのだ。
 誰かに気付いて貰えたら、こうはならなかったのだろうか。安らいだ気持ちは幻のように消え失せ、柔らかな時間が凍りついていく。
 絶望した自分は、何故生まれたのだろう。そして、どうしてこうなってしまったのだろう。シジマは視線を落とす。
 涙は出なかったが、目の奥が熱くなっていた。
 自分は何のために生きていたのだろう。ここに来る者達のように、強く生きたいと望む事は無かった。それなのに何故、今まで生きていたのだろう。ただ生まれたから、そうせざるを得なかったからだろうか。結局自分は何も果たせず、この結末を、自ら命を絶つ事を決めるしか出来なかった。そんな生に、意味はあったのだろうか。
 命が何故生まれるか。その物理的な理由――保健体育や生物の授業で習ったりもした、受精卵が云々といった仕組み――は勿論知っている。それ以外の何か、例えば成すべき事だとか、それこそ魂がどうだという理由があるのではないか。狭間の部屋に来るまでは魂の存在すら信じていなかったが、現に目の当たりにしてしまった以上、そういった意味を考えてしまう。死んだら無になるだけだと思っていたのに、とシジマは茶を含む。そして、ふと思う。そう考えさせるのは誰なのか、と。これがもし、死に至るまでに見ている数瞬の夢だったとしても、何故そんな夢を見るのだろうか。
 自分は、本当に死を望んでいたのだろうか。
「一つ、聞いても良いか?」
 そう問うたのは、カクリだった。
「何?」
「もしも辛い事が無かったら、シジマは生きていけたのか」
 喉元を絞められたように、かすれた息が漏れた。カクリは視界の端でカップを転がしながら、淡々と言葉を続ける。
「何も無かったら、シジマは幸せだったのか? ずっと生きていられたのか?」
 幼子のようにカクリは問う。
「それは……多分、そうだと思う」
 シジマはためらいながら頷いた。カクリの表情が一瞬、得も言われぬものになる。怒り、悲しみ、諦め、哀れみ――そのいずれとも見える表情だった。
「辛い事が無ければ幸せなのか」
 表情を薄笑に変え、カクリは小さく呟いた。
「誰だって、辛い事は嫌だ。辛くて苦しくて、そんな事ばかりで、俺には耐えられなかった。だから俺は……」
「君がそうせざるを得なかった事は、理解しているつもりだ。泣けない程に辛かったんだと、それくらいは私にだって推測出来る」
 でもね、と彼はシジマをじっと見る。
「雨の憂鬱さばかりに目を向ける者に、雲間から溢れる光の美しさは見付けられない。晴天の青空ばかりを望む者に、乾いた大地を潤す雨の恵みは理解出来ない。そして――雨ばかりでも、晴ればかりでも、美しい虹を見る事は出来ないんだよ」

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