小説『Life Donor』
作者:bard(Minstrelsy)

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

 名前も無い。身体も無い。人生も無い。
 あらゆるものを持たないが故に「持たざる者」と呼ばれる事となった。
「それは……人間、なのか?」
 イメージすら描けない相手に、シジマは思わず呟いた。
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるわ」
 センカは頷き、言葉を継いだ。
「置かれている立場は、何度も言うようだけど今までとは違う……全然違うのよ」
 何も無ければ、人として存在する事は不可能だ。だが、それを可能にしているのは、何よりも強い生への渇望。その思いは、今まで狭間の部屋を訪れた何者よりも強い。その強烈な、執念とも呼べる願いが、存在出来ないはずの者を繋ぎ止めている。
「それは、まさか」
 想像すら難しいシジマに対し、ココウは気付いたようだった。怯えたような目でセンカを見る。
「まさか、生まれる前の子供、なの?」
 震える声は、違っていて欲しいと願っているようだった。しかしココウの願いも空しく、センカの首は縦に振られた。そんな、とココウは崩れそうな声でこぼした。
「で、でも」
 水を打ったように静まり返る中、シジマは意を決して口を開く。
「生まれる前から、そんなにも生きたいとか思うのか。だって、まだ考える事だって、殆ど出来ないはずだろ? 自分が誰なのかも解らないはずなのに、生きるとか、そんな自覚があるのか」
「命は、その瞬間から意志を持つんだ」
 カクリは静かに告げる。
 ただの細胞が受精卵となった瞬間に、それ命の時間を刻み始める。そして、生きるための意志を持ち始める。与えられた時間を生き抜くために。カクリは続ける。
「そこに自覚や思考は関係ないんだ。ただ生きたい、命として存在したい、それだけだ。それが、生きる意志なんだ」
「何をしたいとか、何故生きたいとか、そういうのは無いのか?」
「それは意志じゃない、理由だ。持たざる者のそれは、意志だ。納得出来ないなら、生存本能だと捉えてくれればいい」
 生きるための力だとか生きるための理由、そんなものは後から作られた理屈だ。カクリはそう言い切った。剃刀のように、痛みすら感じない程鋭い声だった。
「だったら、今までの審判は、何だったんだ?」
 シジマは腑抜けたようにカクリを見る。
 それが理屈だと言うならば、それを聞いてやってきた審判は、一体何だったのか。自分も相手も、結局は理屈ばかりだったというのか。そんなもので他人の生死を決めて、本当に良かったのか。シジマの声は沈んでいた。ココウもうつむき、唇を噛んでいる。彼と同じ事を感じているのかもしれない。そんな審判達に、センカは哀れむように語りかけた。
「本来ならば、理由なんて不要なのかもしれない。でもね、今ではもう、生きるためには必要なものとなってしまったの。人が人として生きる以上、欠かせなくなってしまった。何になりたいのか、何をしたいのか、予定は、目標は――だから、ただ生きたい、それだけではもう生きられなくなってしまったのよ」
 物心付く前であれば、生きたいと思うだけで良かった。それだけでいくる事を許容されていた。しかし、そんな時期は長く続かない。成長と共に、大人になる事を求められる。生きるための明確な理由が必要となってくる。
「けれど、それは何も大袈裟なものばかりじゃない。さっきの理由……夢や目標ばかりがそれじゃない。好きなものを食べたい。あの店に行きたい。旅行をしたい。明日が期限の仕事がある。試験がある。そんな日常の何気ない出来事全てが、生きる理由足りえるんだ」
 誰も自覚はしていないだろうけれど、とカクリは笑った。
 何かをしたい、或いはしなければならない――些細ではあるが、生きて成さなければならない事柄だ。それをするために生きると言えば仰々しいが、死んでしまえば何も出来ない。つまり、日常生活の全てがその理由になるのだろう、とシジマは思う。
「大きな、凄く大事なものが必要だって、そう思ってた」
 ココウは言い、視線を落とした。シジマも黙って頷く。
 教え聞かされてきたのは、大志を抱く事だった。それを持つ事が何よりも大切で、何よりも必要なもの。それこそが生きる理由で、生きる意味なのだと、シジマも考えていた。いや、シジマだけではないだろう。ココウも、そして大半の者も、そう考えるだろう。生きる意志とは何か――そう問われれば、恐らく誰しもが心の奥底を探り、抱えていたその理由を述べるはずだ。
「そうね。不要だとは言わない。むしろ、必要だと思うわ」
 センカは肯定するが、寂しげに瞳を伏せた。
「でも、それだけが大きくなり過ぎてしまった。だからなのかもしれない。命の持つ力が、忘れ去られてしまったのは」
 彼女は指を鳴らす。
 幕が引き払われたかのように、辺りの光景が一瞬にして変わっていた。部屋が変わってしまったのだろうか。これは、幻なのかもしれない。シジマは爪先で足下を探る。触れるのは、ざらついたコンクリートの感触。確かに、存在している。彼は顔を上げ、周囲を見回した。センカもココウも、そしてカクリも居る。
 彼らが居るのは、どこかのビルの屋上だった。薄曇りの空。高い場所だからか、吹き付ける風が冷たく感じる。湯気のように喧騒が立ち上り、霞がかった街を覆っていく。シジマの住んでいた街とは違うが、よく知っているとさえ感じる雰囲気だ。これは過去なのか、現実なのか。審判の時と同じく、誰かの人生の追体験なのだろうか。シジマはそう聞きかけて、止めた。
 視線の先に揺れる人影。シジマ達とは違う。
「あっ」
 声を上げたのはココウ。
 人影は、彼らより少しばかり年上の青年だった。彼は柵の向こう側へ身を躍らせる。宙に放たれた身体に、翼は無い。飛べない彼は重力に引き寄せられ落ちていく。思いの外早く、まるで投げ落とされたかのように。
 骨が砕け、潰れた肉が湿った音と共に血を撒いた。やや遅れて、状況を認識した者の悲鳴が喧騒を貫く。
 ココウがしゃがみ込み顔を覆う。シジマは黙って目を伏せた。自分もしようとしてる事とはいえ、酷く陰鬱な気分になる。
「生きるために作り上げた理由が、命を殺すの」
 青年が居た場所に立ち、センカは人だかりを見下ろした。
「生きる理由を失った時、命を絶つ者も居るわ。彼は夢を失った。やりたい事が、なりたい自分があったけれど、それを失った」
 遠く聞こえるサイレン。
「希望を失った。生きていく事が出来なくなった。だから、彼は飛び下りたの」
 青年はかつての審判だったのかもしれない。或いは、カクリの話していたキテンだったのかもしれない。いずれにせよ彼は、もう居ない。シジマもセンカの隣に、彼の居た場所に立つ。そこにあったのは、揃えた靴と小さな紙切れ。それが、彼の持ち続けた生きる理由、夢の成れの果てなのか。たったこれだけを残しただけなのか。失う程の夢を持たなかったシジマには解らない。だが、理不尽だ、と彼は思う。それ程までに命を賭けていたのなら、まだ別の道があったのではとさえ感じる。自分が言えた話では無いが。
「希望が大きければ、それだけ絶望も大きいんだ」
 コンクリートの軋む音。カクリはシジマの肩に手を置く。
「だから、希望を持つ事を止めてしまった者も居るんだ」
 足下の影が、インクの如く広がっていくように感じた。シジマは顔を上げ、辺りを見回す。
 周囲が、また変わっていた。今度は外ではない。建物の中だ。コンクリートを踏んでいたはずの靴は、リノリウムの廊下に乗っている。漂っているのは陽に焼かれた埃の匂い。ここは、学校だ。シジマは目眩と気持ちの悪さを感じる。いわゆる、トラウマだろう。嫌な記憶が、心の蓋をこじ開けて湧き出てこようとする。
「大丈夫?」
 ココウがシジマを覗き込んでいる。センカも心配そうな視線を寄越していた。
「……何とか、平気」
 シジマはようやく頷き、息を吐いた。
 カクリはそんなシジマを一瞥し、ゆっくりと歩き出す。付いて来い、という事なのだろう。気持ち悪さをどうにかねじ伏せ、シジマはココウと共に後を追う。
「希望を持つ事を止めたって、どういう意味なの」
 ココウが問う。
「積極的に生きる理由を探さず、日々を退屈だと生き続ける事さ」
 カクリの声が、廊下に響く。放課後なのだろう。人の気配は無い。
 彼は言葉を続ける。
「命の持つ力、ただ生きたいという望みがまだ強くあるのに、生きる理由を求めなければならない。周囲がそう強いているのだろうね。だから、それに上手く適応出来なければ、希望を持つ事を止めて時間を過ごしていくしか無いんだ」
 廊下を抜け、肯定へ。暗く生い茂った雑草が、夜の始まりを抱いていた。
 風とは違う、何かが揺れ軋む音が聞こえる。
「世界が、そんなシステムを作り上げていったんだろう。良い事だとも、悪い事だとも言えない。そうやって人は生きてきたんだから」
 カクリは足を止め、振り返る。
「ただ、一つだけ言えるのは」
 彼の背後。
「歪む命もあるって事だ」
 吊り下がる女子生徒の身体。
 カクリは静かに言葉を紡ぐ。
「生きる理由は、全てが正の方向――夢や希望、日常生活の様々な欲求だけではない。負の理由もある」
 自分が下だと思われたくない。せめて誰かよりは上でありたい。あいつよりは、まだ自分の方が良いはずだ。
「それも、生きる理由の一つとなる。無理矢理でも他人を貶めて優越感を得る事も、だ。一人一人のそんな理由が寄り集まって、利害関係が一致したとしたら、どうなると思う?」
 理由の生贄。カクリはそう言って、女子生徒を見上げた。彼女もその一人だったのだろう。だからカクリは学校へ来たのだ、とシジマは理解した。彼の言うシチュエーションは、嫌という程解っている。
「いじめ、か」
 羽根のように軽い言葉で表されるそれが孕む意味は、命の行方をも左右する。シジマや藤内奈美のように。彼はカクリを見据える。
「あいつは、自分が生きるためにいじめをしたって事なのか」
「本人に自覚は無いだろうけどね。そうしなければ、彼女は生きられなかった」
 無論、他に選択肢はあった。例えば、彼女の打ち込んでいた部活や想いを寄せていた中野だって、十分に生きる理由になり得る。だが、一番強いものが、生きる理由となってしまうのだ。それが水崎だった、とカクリは言う。
「彼女が選択したのは負の理由だった。その結果、彼女は死ぬべきとされたんだよ。選んだ理由が、彼女の命を歪めてしまった」
 そういう意味では、彼女も被害者だったのかもしれない。
「負の理由は、それを選択した者も歪ませる。有り体に言えば、関わった者全てが不幸になってしまう」
「どうして……どうして、そうなってしまうんだ」
 やり切れない気持ちが、シジマの声を滲ませる。
「鬱屈して、澱んでいくからだよ」
 物言わぬ女子生徒にも聞かせるように、カクリは静かに告げる。
「ただ生きたいという純粋な欲求が満たされないと、命の持つ力も澱んでしまう。川の流れと同じさ。水は溜まれば澱み、朽ちていく。それでも、何らかの形で折り合いを付け、理屈を考え、人は生きていく。自分なりの流れを見付けていく。だけど、それが上手く行かない場合……処理出来なかった衝動が他者へと向くんだ」
 それも全て、自分という存在を守るためだ。生きる、ただそれだけのために。カクリは言う。そこに、善も悪も、正しいも間違いも無いのだと。
「存在しているのは、相対的な価値観だけだ。常識も法律も、そうやって作られてきた」
「ありのままに、その命の赴くままに生きればいいって訳じゃない。社会ってものを形成し維持し続けるためには、大切なもの。それが原因で、命を絶つ者が居たとしても」
 センカが言葉を継ぎ、指を鳴らした。
 今度は水辺だった。池か湖だろう。その中程に、浮島のようなものが見える。
 さざ波に揺られ、浮島は緩やかに流れていく。流木だろうか。それにしては、とシジマは目を見張る。
 聞こえてくる叫び声。誰かを必死で呼んでいるかのようだ。声の方向に視線を移すと、対岸から人が駆け下りてきた。取り乱した様子で、浮島を指して叫ぶ。あれは、浮島ではない。人間だ。シジマはようやく気付き、愕然とする。
「命を絶つ理由は様々よ。だけど、全てに共通しているのは、理由が命を奪う事。生きる力を濁らせ、消してしまう。そして」
 淡々とセンカは言葉を紡ぐ。彼女が踏み出した先は、狭間の部屋だ。
「自ら、時計の針を止めてしまうの」
 呼応するように秒針が鳴り響いた。

-33-
Copyright ©bard All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える