小説『Life Donor』
作者:bard(Minstrelsy)

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 当て所無く二人は街を歩き続けた。ショッピングセンターやカフェテラス、どこかのオフィスにも迷い込んだ。誰かの息遣いを辿るように、流れ行く背中を追っていく。様々な人々の、それぞれの生。幸せで、不幸せで、充実していて、満たされていない。水に落とした絵の具のように、全てが淡く混ざりながら形を変えていく。シジマはそう感じていた。
 生きるとは何なのか。ただ生きたいだけでは生きられない、とセンカは言っていた。通り過ぎていく人々は皆、漠然とした未来への希望と不安を抱いているように思えた。かつての、生きていた頃のシジマと同じように。それが、生きていくために必要な理由なのだろうか。
 二人は駅の構内に来ていた。
「切符を買わずに、なんて、悪い事してるわよね」
 ココウは笑う。
「売ってくれないんだから仕方ないさ。警報も鳴らなかったから、悪い事じゃないんだよ」
 シジマも笑う。
 電車に乗ってどこかへ行くつもりは無かったし、乗ったとしてもそう遠くへは行けないだろう。傾きかけた陽の光が構内を刺していた。眩い茜色に、シジマは視線を落とす。残された時間は少ないはずだ。
「俺もさ」
「え?」
「俺も、復讐しようと思ってたんだ」
 彼女が息を飲んだ。
「俺にとっては、学校が地獄だった。昔は、友達だったはずなんだけど、いつの間にかそうじゃなくなって。殴られたり、色々。助けてくれようとした奴も、結局最後は……俺の友達じゃなくなった」
 ココウは何も言わず、黙ってシジマの話に耳を傾けている。
「だからさ、カクリに契約の話をされた時、復讐出来るかって聞いたんだ。それで、出来るって言うから、契約した。殺してやろうと思ったんだ。俺を滅茶苦茶にした奴らは皆、死ねばいい。そう思ったんだ」
「どうして、復讐を止めたの」
 唇を噛んでから、彼女は静かに問う。
「殺しても、気持ちは晴れないって思ったんだ」
 澱んだ瞳で、彼は藤内奈美の事を話した。自分に危害を加えた連中と同一視し、彼女を死すべきとした事を。闇を吐き出すように、暗い声だけがこぼれ落ちる。
「そう……そんな事があったんだ」
 悼むようにココウは呟いた。
「そっちに比べたら、大した事じゃないけど」
「言ってたじゃない? 自分が死んだ理由は、他人にとっては死ぬ理由にならないかもって。比べるような話じゃないよ」
「それは元々俺の台詞じゃないんだ。あいつが、カクリが、そんな風な事を言ってたんだ」
 シジマは小さく肩をすくめる。その所作がまるで彼のようだと気付き、思わず笑ってしまった。
 金属の擦れる音と共に、電車がホームへ滑り込む。人の群れがさざめきながら広がっていく。
「俺が復讐を止めた理由はもう一つあるんだ」
「何?」
「格好付けた言い方になるけど、解放されたかった。生きさせないって決めた事をずっと引きずっているのに、あいつらまで殺したら……後悔するかもしれないし、もっと憎むかもしれない。そうなったら、俺はずっとあいつらから逃げられない。だから、そういうの嫌だって思ったから、止めたんだ」
 電車がゆっくりと走り出し、ホームを離れていく。
「勿論、憎しみが消えた訳じゃない。許す事なんて出来ない。でも……」
「解るよ。私も、きっと同じだから」
 返す彼女の声に涙が混じる。こらえようと唇を引き結んでいるが、涙は止まる事無く流れていく。
「我慢しなくても、良いと思うよ」
 シジマがそう言うと、糸が切れたようにココウはその場に座り込んだ。膝に顔を埋め、しゃくりあげる。その横を、人々は通り過ぎていく。誰も自分達に気付かない。優しく声を掛ける者も、気遣う者も居ない。シジマは彼女の側に屈む。少しためらったが、手を伸ばし震える肩に触れた。カクリがそうしてくれたように。
「私……私……」
 ココウは何かを言おうとしているのだが、紡ぐ前に嗚咽に変わった。何も言わなくても良い。思い切り泣けば良いんだ――シジマの言葉も、涙に変わる。
 誰にも届かぬ号泣が、夕映えに染まるホームに響いていた。


 涙は、いつか乾く。ひとしきり泣いた二人のそれが乾いた時には、夕陽の残光は糸のように細くなっていた。
 シジマは目元を拭った。袖口でこすったせいか、少しばかりひりつく。こちらを見るココウの目は赤くなっていた。泣いた後、と解る有り様にどちらともなく吹き出した。
「何か、泣いたらすっきりしたね」
「そうだな」
 丁度ラッシュの時間になっていたのだろう。電車を待ち、そして降りてくる人の数は増えていく一方だ。同じ年頃の若者も多い。遊んだ帰りなのだろう。ショッピングセンターの袋を手にしていたり、景品らしきぬいぐるみを抱えている者も居る。二人は人の少ないホームの端からその様子を眺めていた。
「ねぇ」
「何?」
「答え、見付かったの?」
 シジマは小さく首を振る。
「そっか」
 予想していたのだろう。ココウはそれ以上追求せずに頷いた。
 生きる事の答えを探すとは言ったが、恐らく見付からないだろうとシジマは最初から思っていた。それでも何か掴めたら良い、と考えたのも事実だ。だからカクリに街に行く事を願った。結局、確かなものは何も手に出来なかったが。
「だけど、何となくだけど、これで良いんじゃないかって気はしてる」
「どうして?」
「生きる事そのものが答えなんだと思う。自殺した俺には、解るはずが無いんだよ」
 それはあの部屋の案内人達と同じ。求める答えは、経験する事でしか得られない。そして、それは叶わぬ事だ。
「そうかもね」
 ココウも理解したのだろう。そう言って微笑んだ。
 夕陽の糸がビルの角に引っ掛かり、音もなくふつりと切れた。それと同時にざわめきが遠くなる。街並みが、摺りガラスの向こう側のように輪郭を無くしていく。何事かと口にしかけたところで、シジマは思い至りポケットを探る。引っ張りだしたのは、センカから渡された時計。
「これは……」
 秒針がその動きを止めていた。
「時間、なのね」
 ココウも手の中のそれに目を落とす。
 静寂に歪んでいく世界の中で、二人は惜しむように視線を合わせ、戸惑うように手を繋いだ。
「一つだけ教えて。死んだ事、後悔しているの?」
 迷いなく頷く事は、シジマには出来なかった。答える代わりにうつむく。
「私は……私は多分、後悔していない。でも」
 そう言ったココウは、彼とは逆に顔を上向ける。
「これで良かったのかどうかは、解らない」
 正面に戻した彼女を、シジマは見据える。
「生きていたら良い事があるとか、いつかは報われたとか、そんな事はどうでもいいの。ただ、死ぬ以外の方法を見付けられたら、何もかもが違っていたんだと思う」
 死なずに済むのなら、こんな道を選ばずに済むのなら、その方がどれだけ良かった事か。だが、自分達にはそうする以外に考えられなかったのだ。
「この方法を選ばない事が、生きるって事なんだろうな。当たり前の事かもしれないけど、俺には出来なかった」
「それも、一つの答えかもしれないね」
 ぼやけていく風景が、二人を侵食していく。爪先はもう、形を失っていた。
「最期に、一緒に居られて良かった」
 ココウが笑顔を向ける。眩しくて優しい、彼女の本当の笑顔だった。
「俺も、良かった。楽しかったよ。ありがとう」
 繋いだ手を、シジマは強く握り返す。しかし、その感覚は泡のように消えてしまった。彼女の手が、霞んでいく。
「生きていた時に会っていたら、私達、友達になれたかな」
 消えていく自分の身体を見ながら、ココウは呟く。
「なれたよ、きっと」
 シジマは精一杯明るく言って、笑ってみせる。
 それが、最後だった。
 全てが溶け混ざり、渦となって二人を飲み込んだ。後には二つの時計だけが残される。時を刻む事を止め、ひっそりと眠りに落ちたそれだけが。

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