小説『Life Donor』
作者:bard(Minstrelsy)

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 ベビーカーの中、小さな手を一杯に広げる赤ん坊。覗き込む顔も自然とほころぶ。
「大きくなったわねぇ」
「本当、他人の子は早く感じるわ」
 大変ですよ、とみつきは笑う。
 息子の優一(ゆういち)は、彼女が授かった初めての子供だ。慣れぬ子育てと日々の家事の合間、こうして近所の住人と話しをする事がいい気分転換となっていた。
 帰りたくない、とさえ思う程に。
「それじゃ、また明日ね」
「離乳食のレシピ、持ってくるわね」
「え、ええ……」
 家の前で隣人たちは手を振り、各々の家へと向かった。
 みつきの顔は険しい。呼吸を整えて門を開く様は、自宅に帰るとは思えないものだった。その理由は、玄関で待ち構えていた。
「あら、また外に居たの? いいご身分ねぇ」
 ただいまを言う間もなく浴びせられる嫌味。最近同居を始めた義母だった。義父が入院したために、一人では何かと大変だろうと彼女の家で一緒に生活する事となったのだ。
 最初はうまくやれると思っていた。やろうと、努力していた。こじれないように、夫に迷惑のかからないように、精一杯気を遣っていた。だが、そんな彼女を嘲笑うかのように、義母は辛辣な嫌味や小言を繰り返した。唯々諾々と従ってはいたが、限界だった。息抜きを求めて息子と外出するようになってからは、義母との関係は更に悪化するばかりだった。
 夫にも打ち明けた。これ以上は耐えられない、そう涙ながらに訴えた。しかし。
「父さんが入院して寂しいんだよ。それに、慣れない生活だし、ストレスもあるんだろ。気持ちは解るけど、何とかうまくやってくれないか」
 そう言うだけだったのだ。
 両方を大切に思っている、と第三者なら思っただろう。だが、みつきにとっては「味方ではない」と言われたに等しかった。
 義母の態度はエスカレートするばかりだった。四六時中嫌味を言われ、やる事なす事全てに文句を付けられる日々。夫は頼りにならず、誰かに相談も出来なかった。
 いっそ離婚しようか。何度そう思った事だろう。別れてしまえば、間違いなく楽になれる。だが、幼い息子の事を思えばそんな決断が出来るはずもない。息子に苦労をさせるよりは、自分が耐えた方が良い。それに、夫への愛が無くなった訳ではないのだ。今も、勿論彼の事を愛している。
 しかし、それを見透かしたかのように義母は言い放ったのだ。
「出て行ってくれて良いのよ。優一は置いて行ってくれればいいわ。あなただけで育てるのは大変でしょう? それに、大事な大事な跡継ぎですもの。あなたに任せるよりはよっぽど良い教育を受けさせて上げられるから、なぁんにも心配はいらないのよ」
 よくある話だね、とカクリは呟く。
 彼らは過去のみつきを追い、事の成り行きをずっと見ていたのだ。
「嫁姑問題ってやつさ。シジマも、聞いた事くらいはあるだろう?」
「あるけど、よく、解らない」
 シジマはうつむき、視線を落とした。
 過去のみつきは、優一のベビーベッドの側で眠っていた。心身ともに疲れ果てている事は、シジマにだって解る。
「こちらも気分転換が必要かもな。場所を変えようか」
 カクリが指を鳴らす。
 スイッチが切り替わるように、一瞬で周囲が変わった。
「ここは……」
 カラフルな遊具。芝生に砂場。暖かそうな日溜まり。帰った後なのだろうか、遊んでいる子供の姿は無い。
「近くの、公園です」
 消え入りそうな声でみつきが告げた。その顔は憔悴しきっている。義母とのやり取りを見せつけられ、その上に追い詰められる自分を目の当たりにしていたのだ。相当参っているだろう。
 凄惨だ、とシジマは思う。誰にも頼れない、味方が居ない――そんな状態で耐える彼女が、痛々しくてたまらなかった。シジマは彼女に目を向ける。それでも、こんな状況であっても、彼女は生きたいと思っている。生きたい理由がある。
 解らない。彼は口の中で呟く。何故生きたいと望むのか。こんなにも辛い思いをしてまで、生きる必要があるのか。彼女の姿が、生きていた頃の自分と重なる。誰も居ない、誰も信じられない、孤独だった自分の姿に。
「どうしたんだい、シジマ」
 いつの間にかジャングルジムの上に腰掛けていたカクリが、煩悶するシジマを見下ろしていた。シジマは彼を振り仰ぐ。
「平気で見ていられる訳がないだろ。何も、何も感じないのか」
 一瞬だけその顔に驚きを浮かべたが、カクリは何も言わない。黙って彼を見下ろしている。その目が、彼の心を握り潰す。思い出したくない目だった。見ているのに、何も見ていない。傍観者のものだ。
「そうやって見て見ぬふりして、自分は関係ないって、何でそんな風で居られるんだよ。どうして助けようとしないんだ!」
 シジマの声はほとんど悲鳴だった。みつきが驚いたように彼を見つめている。
 カクリは一瞬だけ、唇を強く引き結んだ。
「これは、過去だと言っただろう」
 忘れていた事実にシジマははっとなるが、それでも気持ちを抑える事は出来なかった。行き場のない怒りをカクリへとぶつける。
「けど、だからってこんな……黙って見続けるなんて出来ない!」
「もう起こってしまった事だ、シジマ。黙っていようが、手を出そうが、何をしたって変わらない。私達には何も出来ない。ただ、事実を見ていくんだ。ありのままの全てを」
「過去だから、平気なのか。何も変えられないから、そうやって見ていられるのか」
 シジマはカクリを睨み付ける。
 カクリは薄く笑い、ジャングルジムから飛び降りた。そして、音も無く着地する。
「ほら、こうしたって何も変わらない。何も出来ないって、解ったかい?」
 彼は駄々をこねる子供に相対するように声で言いながら、足下の小石を蹴り上げる。だが、石はそこから微動だにせず、砂粒一つすら舞い上がらない。その様にシジマは、彼の言う通りなのだと思い知らされる。
 見ているしか出来ない。自分には何も出来ない。けれども自分は、カクリのように平気な顔で見る事なんて出来ない。シジマは唇を噛み締める。
「解ったなら、行こうか。次で最後だ」
 シジマの思いをそよ風程にも感じていないのか、彼は微笑んだままシジマの肩に手を掛ける。その手を払いのけ、シジマは彼の襟元へと掴みかかった。しかし、寸前で止められた。手首を掴まれたまま、シジマは彼を見据える。
「俺はこんなの――」
「耐えられない、か?」
 ここで初めて、カクリは飄々とした笑みを消した。冷たささえ感じないガラスのような瞳が、まっすぐにシジマを射抜いていた。シジマは身じろぎ一つ、視線を外す事すら出来ない。
「やるべき事をやるんだ。それが、彼女のためでもある」
 カクリはシジマの手首を解放し、表情を緩めた。
「相手の人生を見て感じた事は、審判の上で一番重要な事だ。怒りも、悲しみも、もどかしさも、全てが必要になる。シジマが私に言った全ては、彼女にとっても大切なんだ。だから、ありのままを見て、ありのままを感じるんだ」
「だけど」
「平気じゃなくていい。耐えられないと感じてもいい。だが、逃げるな。逃げる事は許されない。これは君の義務。やるべき事なんだ」
 行くよ、とカクリはシジマを促す。
「彼女の最期を、見届けるんだ」

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