小説『Life Donor』
作者:bard(Minstrelsy)

しおりをはさむ/はずす ここまでで読み終える << 前のページへ 次のページへ >>

 昼下がり、と呼ぶには少し遅い時間。過ぎる時間は、いつもと同じ日常だった。
「それじゃあ、また明日にでも」
「ええ。楽しみにしてますよ」
 ただ一つ違ったのは。
「浦川さん! 危ない!」
 斜めに横切る黒い影。
 咄嗟にベビーカーを影から庇い、渾身の力で押し出す。
 直後、衝撃が彼女を襲う。弾かれた身体はアスファルトを転がり、やがて動かなくなった。
 静寂を裂く泣き声。
「浦川さん! 浦川さん!」
「救急車を、早く、誰か!」
 身体が動かない。
 指先さえも、言う事を聞かない。
 目もよく見えない。そこに居るのは誰だろう。
「浦川さん!」
 先程まで一緒に居たうちの誰かだと解るが、それが誰なのかは判然としない。
 混濁する意識の中で、彼女は唇を震わせる。
「ゆ、優一、は」
「無事よ、大丈夫よ。だからしっかりして!」
 良かった。その言葉は声にならなかった。
「……さん、……!」
 みつきの意識の奥底に最後まで聞こえていたのは、己の手で守った息子の泣き声だった。


 そして、何もかもが闇に包まれる。
「無免許運転の暴走車。それがあなたを撥ね飛ばしてしまった。重症を負ったあなたは生死をさまよい、そして、この狭間の部屋に辿り着いた」
 光が戻る。いつの間にか、彼らは元の部屋へと戻っていた。針の音がさざめく。
 机の上には、彼女の時計。蛍のように光をまとっている。
「さっきまでのは、何だったんですか?」
 わななく声でみつきが問う。祈るように組み合わせた手もおののいていた。無理もない。自分が事故に遭う様子を見せられたのだ。
「これが、審判ですよ」
 シジマの側に戻ったカクリが告げる。
「それじゃあ、今見た事で、私がどうなるか決まるんですか?」
「いいえ。これから決まるのです」
 シジマ、とカクリが呼ぶ。シジマは僅かに顔を持ち上げ、みつきを見た。
「彼が、決めるのです」
 光を消し心を塞いだ瞳で、シジマは彼女を見据える。彼女は明らかに動揺していた。カクリではなくこの少年が己の運命を決めるとは、微塵も思っていなかったのだろう。
「シジマ」
 カクリに促され、シジマは口を開く。
「何故、生きたいと思うんですか」
「何故って……私には子供が居るのよ。あの子のために、私は生きなきゃいけない」
 半分予想していた答えに、彼は目を伏せる。解らない、そう呟きながら。
「あんなに嫌味を言われて、追い詰められて、誰も味方が居ないのに? 生き続ける限り、あれに耐えていかなきゃいけないのに? 俺には、解りません。そんな思いをしてまで、どうして生きていく必要があるんですか。息子さんのためだけで、生きていきたいと思えるんですか」
 思い返す、みつきと義母とのやり取り。心を削られ、押し潰され、苦痛ばかりの日々。関係のないシジマでさえ、耳を塞いで逃げ出したい程だった。もうやめてくれと叫びたかった。息を止め、みつきをじっと見据える。そして、あなたはそれでも生きられるのか、とシジマは問う。
「ええ。息子のためならば、生きられるわ。それが、母親よ」
 みつきは視線を正面から受け止め、きっぱりと言い切った。
 シジマには、彼女の気持ちを理解する事は出来なかった。自分だけでも精一杯だったのに、子供とはいえ他人のためにと思えるものなのか。母親だから、どんな事でも耐えられると言うのだろうか。シジマの脳裏を、母親の姿がよぎる。自分の母親も、そうだったのだろうか。辛いと言えば、みつきのように助けてくれたのだろうか。
「息子のためだと思えば、今が辛くても……。それに、いつかきっと、良くなるかもしれないと思えるから」
 はっきりと告げるみつきは、まっすぐに前を見つめていた。自分達を見ているのではない、とシジマは気付く。彼女の信じる未来を見ている。ここではない、ずっと先の場所を。
「そうとは限りませんよ」
 その視線を自分達の元へと引き戻したのは、カクリだった。穏やかな笑みを晒したまま、彼は淡々と言葉を紡ぐ。

-6-
Copyright ©bard All Rights Reserved 
<< 前のページへ 次のページへ >> ここまでで読み終える