小説『忘却の罪』
作者:裏音(雨月夜ノ歌声)

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貴方は私を見てくれていた?
貴方は私を、私として見てくれていた?
貴方はちゃんと、

私の存在を覚えていてくれた?

暗闇の中から聞こえてくる声。
すごく、懐かしい声なのに、思い出せない。
大切な、誰か。忘れてしまったのか、失くしてしまったのか。それとも…?

『絶対に忘れないでね』

何故かその言葉は、少しばかり恐怖を感じた。

朝。頭に言葉が木霊する中、彼は目を覚ました。
カーテンの隙間から薄っすらと日差しが入り、夢の声で起きなくても、そのうち日差しでおきてしまうような。
窓が少し開いており、そこから暖かい風がはいる。カーテンが、小さく揺れる。
「誰…だ…?」
目を覚ましてすぐ、自分自身が誰かも忘れてしまった気がした。何か大切なものを、忘れてしまった気がした。
こういうような夢は随分前に何度かあった。原因はよくわからなかったし、その前に昔のことをよく覚えていない。
思い出そうと、思考を廻らせる。何かを、何かを忘れてしまっているのなら、必ずヒントとなるものが記憶に残っているはず。
そう思い、考えてみるのだが、
「っ…!」
途端、鋭い痛みが後頭部に走り、思考が中断した。そして、痛みは数秒間続き、その間、完全に思考は停止してしまった。
「…あれ? 俺、今何考えてたんだろう…?」
頭痛が消えると、彼は今考えていたことを忘れてしまっていた。思考が停止どころか、考えていたことがわからない。
何を考えていたのか。どんな夢を見たのか。何かを忘れてしまったことを、忘れてしまったのだ。
見た夢も、声も。全て。

彼は社会人で、フリーター。仕事をしようにも、やりたいことがなく、ぜんぜん見つからない。
しかも不思議なことに、高校時代のとある時期の記憶だけが、ほとんどあいまいで、わからない。
ただ忙しすぎて、よく覚えていなかったのかもしれないと彼は納得したつもりだが、心のどこかで、納得できない何かがあった。
今はバイトをしながら、のんびりとすごしている。
数日経ったある日、彼は街角で一人の女子高生をナンパした。ナンパは昔からあまりしないのだが、
あまりにも暇なため、ちょっと声を掛けてみたのだ。
すると案外簡単に引っかかり、お茶に誘うことができた。
「ねぇ、君名前なんていうの?」
どこか適当な喫茶店に腰を下ろすと、注文したコーヒーをすすりながら、女子高生に顔を向けた。
女子高生は、黙ったまま、窓の外を見ている。
「彩。西条、彩」
女子高生、彩は、そう簡潔に答えると、メロンソーダを飲んだ。そして、目線を彼に戻した。
「ねぇ、君って彼氏とかいる?」
調子に乗ったように、彩に聞くと、彩はぴたりと手を止め、黙ってしまった。
「あ、ごめん。何か気に障ること言った?」
「別に。先に貴方の名前も教えてよ」
確かにそうだ。と、彼は自分の名前を言おうとしたが、
「…あれ、なんで? 自分の名前なのに…」
思い出せない。自分の名前が。そういえば、最近自己紹介なんかすることもなかったし、自分の名前に触れることもなかった。
忘れた?それとも、失くした?
「…貴方に、彼女はいた?」
「え、俺に? えーっと…」
これもまた、思い出せない。いた気もするが、それが誰で、いつ出会ったのか。思い出せない。しかもそれは全部、あいまいな高校生活の記憶だ。
「忘れたの? 忘れてしまったの?」
何故だか、彩の声が耳に、脳に響く。嫌な音がする。
「本当に、忘れてしまったの?」
声が鋭くなり、脳に直接響くように聞こえる。頭が痛くなった。
「許さない。忘れるなんて、許すものか!」
たくさんの声が混じったような声で、彩は彼をにらみつけた。その顔は、見ていて気持ち悪くなるような、
おぞましい顔だった。
そしてそれを最後に、彼の意識は、深い闇へとゆっくりと沈んでった。

「起きて。起きてよ、――」
女の声に、意識が戻る。だが、女の声が最後まで聞き取れない。
「起きた? ――、ずっと寝てたんだよ」
言葉が、聞こえない。誰だろう。聞こえない部分には、何が入るんだろう。
そんなことを考えながらも、意識はだんだんと覚醒していった。
体を起こし、周りを見る。あたりは暗く、自分と、女しか見えない。
「君は…誰?」
恐る恐る女に声をかけた。女は透き通るような瞳で、彼を見つめ、そしてこういった。
「私を見て。私を忘れないで」
「君は…」
だんだんと記憶が蘇り、記憶の中にある、崖の上の女と、目の前の女の姿が重なる。
「うぐっ…」
あと一押しで蘇る記憶が、寸前の所で頭痛により阻まれた。あと少しなのに。彼は、手が届かないようなもどかしさに襲われた。
苦しそうに頭を抑える彼に、女は、
「忘れさせない。絶対に、貴方に私を忘れさせたりするものか!」
口調が強くなり、女は彼の首に手をかける。恐怖が、思考を駆け巡る。
「忘れてしまったのなら、地獄を巡りながら思い出させてあげる…!」
女の手に力が入った瞬間、彼の脳裏に記憶がフラッシュバックする。

『まってよ彰』
女と、男。二人が海岸沿いに歩いている。女は少し足元がおぼつかなく、男に追いつけない。
『さっさとついてこいよ』
女なんかお構いなしにと、どんどん先へと進む。
二人は崖を上り、一番上までと上る。そして、波立つ海を眺めた。
『ねぇ、彰。お互いに、絶対相手のことを忘れないようにしようね』
女が男に抱きつく。
『勿論だよ。絶対忘れない』
男も、女を抱きしめ返す。
『『私たちに、永久の愛を』』
二人はそう叫び、崖から飛び降りた。
『ありがとう、彰』
『ありがとう、沙奈』
最後に見た景色は、青い空だった。

「思い出した…沙奈、か。沙奈なのか?」
既に女の手は首から離れ、男に抱きついている。
「そうだよ、彰。あのあと彰は、死んだ私を差し置いて、一人岸まで泳ぎきった…」
そう。思い出した。あの後自分は、岸へと泳ぎきり、近くの漁師に助けてもらったのだ。
だがその後、彰は罪の意識にさいなまれ、毎晩苦しんだ。
女、沙奈の抱きつく力が強くなる。
「一人で生きたばかりか、約束を破り貴方は私の記憶を封じた!」
記憶を封じた。それで、全ての説明がつく。高校生活があいまいだったのは、記憶を封じたからだった。
沙奈の腕に力が入り、抱きつく、という領域を超え、彰の体を締め上げる。
「あっ、がっ…!」
口から血を吐き、苦しそうにする。だが沙奈は力を緩めようとしない。その瞳は、憎しみと、悲しみに覆われ、正気ではなかった。
「沙、奈…ゆるされないのはわかっ、てる。だけどっ!」
彰は力を振り絞り、最後まで言葉を紡いだ。
「俺がお前を愛してることにっ、変わりは、ない!」
「彰…」
沙奈の力が緩まった。その隙に沙奈から離れると、彰は口元に流れる血をぬぐい、沙奈に向き直る。
「沙奈…忘れていたことは本当にすまないと思ってる。罪悪感から、記憶を封じたことも否定しない」
沙奈は何も言わない。否、何もいえないのだ。言葉が出てこない。
「けどな、俺はお前が好きだった。無理心中を持ちかけられても、断らなかった」
うつむく沙奈を抱きしめ、言葉をつなげる。
「でも、体は死を受け入れられなかったんだよ。死ぬことが怖かった」
「私だって、怖かった。でも、彰がいたから…!」
沙奈の瞳が、正気に戻った。今の沙奈の瞳には、罪悪感が残る。
「ごめん。今この罪が、この命で償えるのなら、俺はその身をもって償おう」
ゆっくりと、沙奈の手を自分の首に添える。
「さぁ、俺の命を取れ。それで償える罪ならば、俺は躊躇しないし、もう、逃げない」
覚悟したように、沙奈の手を強く握った。薄っすらと痕が残った。
「できないよ…彰を殺すなんて、できないよ」
涙を流す沙奈、だがその言葉を聴かなかったかのように、彰は目を閉じた。
彰の意識は、黒と白のモノトーンの世界へと流された。

ぽたりと、水が落ちてきた。
頬に伝うのは自分の水。
じゃあ、落ちてきたのは、誰の水?

瞳は開かないで、声だけを聞く。
そして、二人で紡ぐ言葉。
「「私たちに、永久の愛を」」
今度こそ本当に、永久の愛を。
そう、誓った。



それから一ヶ月。彰は、毎日彼女の墓参りをしている。毎日花を沿え、彼女の好きだった食べ物を添える。
少しでも自分の罪を、償うために。
彼女は自分を殺さなかった。それは、多分彼女の中に、自分を愛する心があったから。
「でも、俺がしたことは…許されることじゃない」
だからこそ、こうして必死に償いをしている。
別に罪が全て消えるとは思ってない。けど、少しでも償えれば…。そう思ってのことだった。
「なぁ、沙奈。お前は今、どこにいるんだ?」
空を見上げ、そう問いかけた。
答えが帰ってくることはないのに、なんだか、沙奈の声が聞こえた気がした。

空は、あの時と同じ、青い空だった。


FIN

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