小説『先生は女子大生』
作者:相模 夜叉丸()

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「まぁ、がんばってよ。食べられるわけじゃないんだから・・・。」
 そろそろ本礼が鳴るから、と言って木南が席を立って帰り際に女性恐怖症気味の僕に呆れ顔で励まして去って行った。
 

 初めての市谷スクールの授業からはやいもので既に1か月以上が過ぎていた。最近は木南の真似をして学校の放課後や図書館を利用して勉強するようになったが、自習室代わりに使うといいと言われた市谷のあの教室は使っていない。勿論一宮先生がいるからだ。
 未だにまともに先生の目も見れないし、話すときはいつも先生の白い手の甲に視線を落として話したりした。もうなんて思われようと、受験が終わるまでずっとこの姿勢を崩さないようにしようと思った5月のことである。
 前にも述べたように、先生は人間であって魔物でも、妖怪人間でも、もののけ姫でもない。心を通わせることはできなくても円滑な会話くらいはできるのである。
 何かしらのキッカケというものは、案外身近なものだったりするのに気づいたのは僕が5月の3週目の土曜の授業に行ったときである。
 授業も中盤に差し掛かった時、例によって先生に問題を解くように指示されてその作業を行っていた。今日の授業内容は仮定法である。IfだとかI wishだとか。模試とかで時々見かける文法だ。
 いつも僕は視線を問題集だけに集中して、それ以外のものは先生も含めて全く見ないようにしてた。先生の視線を感じても全くノータッチ。問題集も後半に差し掛かった時、先生が僕の手にすごい視線が行っているのを感じた。僕は徐々に、止まりそうなくらい心臓が速く脈を打つのが分かった。あれ、何か間違いでもあったかな・・・何か変なこと書いたかな。僕はそれを探してみたが何もなかった。緊張のあまり体中が寒く感じる。気になったが先生に話しかけるのも怖くてただただ耐えていたその時だ。
 「ギター・・・やってるの?」
 僕の首が先生のいる左側へと向いた。緊張の糸がフワッと消える。緊張が限界を超えて何とでもなくなる感覚だった。
 黒くてきれいな目が僕を見つめていた。僕は唐突な質問に答えられず、そもそも何を聞かれてるのかすらわからなかった。
 先生のほうを向いたまま黙った僕に先生は細い指で机に置いてる僕の右の手元を指した。先生が指差していたのはシャーペンをノックするところからぶら下がっているフォークギターのストラップだった。2年前にギターショップで当てた景品だ。
 「・・・あっ、ああ。はい、そうです。」
 僕は先生の質問の内容が理解できると、沈黙を早く破ろうと慌てて答えた。
 「もうどれくらいやってるの?」

 「えっと、高1から・・・です。はい。」
 
 「・・・じゃぁ、結構上手く弾けるんだ?」

 「いやっ。そこまでじゃ。初心者と中級者の間くらいで・・・。」

 「そっか・・・。」
 先生は目を細めて、ふふっと含み笑いをした。
 「かっこいいじゃん。」

 「はっ、えっ・・・。あっ、ありがとうございます。」
 それからお互いに再び沈黙してそれぞれの作業を再開した。


 塾での授業が終わるといつも尻が熱くなる。学校のような木の椅子ではないからだろうか。市谷スクールを出て僕は家へと歩き始めた。いつもならちゃんとこの時間を生き延びられてよかったと思いながら帰るが、今日はそうじゃなかった。なんだろう、この胸に広がる快い感覚は。緊張の時間でしかなかったのに、曇りが晴れた感じ。晴れ晴れしい!
 僕はスキップするような気分で排気ガス臭い道路沿いを歩いていると、僕は気づいてしまったのだ。思い出される、先生の言葉、表情。交わした言葉。
 その事実は一瞬嘘だと思われたけど、先ほどのことを思い出すたびにそれは確信してもいいことだと分かった。僕は、自分自身に言ってやった。
 「ちゃんと、話できたじゃないか。」
 
 

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