「おーい、腑抜け野郎―」
背後から誰かの呼ぶ声がする。振り返りたくない。振り返っちゃいけない。僕はそう思ってそのまま走り去ろうとした。
でもその瞬間、
「ごふっ」
突然襟首を掴まれ、後ろに引き戻されると同時に、僕の右頬を固く握りしめられた拳が直撃する。続けざまに腹も殴られた。
「なーに無視してくれてんだこの野郎」
倒れた僕を見下して笑う先輩達。そのまま僕は無理矢理立たされる。
「もうやめてくだ・・・」
「あ?」
抗議する間もなく、再び僕は倒れ込むことになった。顔を軍靴で踏みにじりながら先輩達は笑っている。
「お前みたいな腑抜け野郎に口答えする権利ないっての。黙って言うこと聞いてりゃいいんだよ」
そしてそのまま便所に連れて行かれると、突き飛ばすようにして中に入れられる。足下を滑らせて転んだ瞬間、先輩達にどっと笑い声が起きた。
ここは兵舎の近くにある公衆便所だった。掃除をまともにする人がいないせいで、すっかり汚れきってしまっている。でもだからと言ってまったく掃除しないわけにもいかないから、一応当番制をとり、各分隊ごとでローテーションを回していくということになっているのだけれど、それでもなかなか綺麗になることはなかった。だから最近では、そのあまりの汚れのひどさに上官の誰かが問題点を指摘したのか、以前より一層監査が厳しくなり、掃除をさぼった際にはペナルティを課せられることになっている。そのせいで、どの分隊もしぶしぶながら掃除しないといけないんだけど、その中にはやっぱりさぼりたい人たちがいるわけで。
そう、ちょうど今日の僕たち第三分隊みたいに。
「お前一人でやれよ」
投げ出された便器ブラシにバケツ。ごろんごろんと鈍い金属音を響かせながら転がってくるそれらを、僕は絶望的な目で見つめていた。
するとその様子を見て、先輩の一人が急に表情を変える。その目には、何の温もりも同情も感じられない、まるでものでも見るような眼差しだった。
そして、機械のような冷たい声で吐き捨てるように僕に命令する。
「さぼろうなんて思うなよ?もしそれで俺らがとばっちり受けるようなことがあろうもんなら―――」
―――ただじゃおかねーからな。