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いまだに信じられずにいる。
自分が死んだこと。光の玉となってどことも知れぬ場所を彷徨い、果ては不思議な鎧に乗り移ってしまったこと。この世界が、実は仇敵である魔王が存在する世界であること。そして彼女に――ミリッツに出逢えたこと。
鎧は――鎧の中に宿ったヴァルガ=バークホルドの意識は、それらをすべて受け入れられるほど物わかりがよいわけではなかった。不安、恐怖。だが、泥沼のようなそれらの感情を拭い去るほどの高揚感が今の彼にはあった。
煙突のような細長い塔の屋根を軽く蹴る。それだけで身体は風を切り、虚空に舞い上がった。
身体が軽い。全身に力が漲ってくる!
着地。痛みは一切ない。肉体そのものを失った空虚な感覚と引き替えに、身体は自分の思う通りに反応し、期待以上の成果を見せてくれた。
視界が広い。どこまでも続く荒野とくすんだ大空を、余すところなく捉えることができる。さらにその端境には、長大な光の壁が延々と続いている姿も見ることができた。
あの得体の知れない連中に追いかけられていたときには気付かなかった。生まれて初めて味わうような、爽快感だった。
そしてもうひとつ、彼の身に起きた大きな変化――
はっきりと聞こえる――語りかけてくる、声。
男とも女とも分からぬ中性的な声音、は完全に意志ある存在となっていた。どことなく人を小馬鹿にした口調で、ヴァルガに助言とも皮肉とも取れる話を持ちかけてくる。まるで頭の中にもう一人の他人が住み着いてしまったようだった。
「うぅ……」
微かな呻き声が聞こえ、ヴァルガは我に返った。腕に抱えた少女がぐったりしている。彼は慌てて手近な地面に降り立った。小高い丘の上で、ごつごつした岩肌の他には野草の一本も生えていない、まさに不毛の土地だった。
細心の注意を払い、少女を座らせる。何か話しかけようとして、ヴァルガは自分の姿のことを思い出した。
『えっと、あー』
改めて自分の声を聞いて驚く。大型の鳥が洞窟の中で啼いているような、不思議な透明感のある響きだった。自分の声には間違いないはずなのに、歪みを覚える、違和感。
それでも、義妹に再び逢えた喜びからすればささいなことだった。ヴァルガは力を込めて語りかける。
『ミリッツ、ミリッツ。大丈夫かい? わかるか? 俺だよ。ヴァルガだよ』
「……?」
義妹は不安そうに首を傾げる。無理もなかった。今のヴァルガは昔とは似ても似つかぬ姿をしているのだ。本当は冑を脱いで安心させたいところだが、脱いだところで中身は空っぽなのだ。
途端、背中に重いものがのし掛かったような気がした。突然、現実を突きつけられた気分になった。そう、自分の肉体はもはや存在しない。ヴァルガ=バークホルドは間違いなく一度、死んでいるのだ。
ということは、目の前にいる彼女もまた――
『ごめん』
自然、そんな言葉が出た。
『ごめんよ。守れなくて……情けないまま死んでしまって俺……本当に、ごめん』
震える。哀しいのに、悔しいのに、涙が流れないのはつらかった。
何かが冑に触れた。顔を上げると、義妹がその手をかざし、ヴァルガの頬のところを撫でていた。
目の前にある顔。いつもは気が強そうに引き締められている瞳が、今は優しく緩んでいる。小さく完璧に整った輪郭、豪奢に流れる髪、豊かな丸みを帯びた肢体――ヴァルガの記憶よりも少しだけ成熟した雰囲気を醸し出す少女を前に、彼は幸福と情けなさが混ざった小さな呻き声を漏らした。
「私こそ、ごめんなさい」
ヴァルガは耳を疑った。また軽蔑されると思っていたのだ。しかし声音は間違いなく、彼のよく知る少女のものだった。
「私がもっとしっかりしていれば。もっと早く、あなたを見つけていればこんなことにはならなかった……」
『違う。それは違う! 悪いのはこの俺だ! 力も、勇気もなかった俺が……だからお前が謝る事なんてないんだ、ミリッツ! 俺は、俺はっ』
想いが溢れ出して、止まらなかった。
『俺は弱かった。でもそれを認めたくなかった。自覚していたなんて嘘だ。本当は口にしたくなかっただけだ。今度こそ、お前に見捨てられると思って……! だけど見てくれ、俺は変わった。もうあのころの弱い俺じゃない。力が、後から後から湧いてくるんだ。これならもっと強くなれる。胸を張ってお前の隣にいられる! だからミリッツ、一緒に――』
そこで口をつぐむ。
一緒に……どうする気だ?
すでに息絶えた自分と彼女が、一体、何をしようというのだ。
しかもこんな、借り物の力で。
今さら、何を――
「本当に、ごめんなさい」
再び、少女が言った。
ヴァルガは何かを言い繕おうとして失敗した。言葉が出てこない。それは単に、自分の気持ちを上手く表現できないだけではなかった。
何だ。この違和感は。
胸の奥がささくれ立つような、この恐ろしいほど冷たい不安は、何だ。
「ずっと気になっていたんです。どういう理由であれ、私たちがあなた方の未来を奪ったことは、どんな言葉で繕っても消せるものじゃない……」
少女が立ち上がった。薄絹が風に乗ってたなびく。ヴァルガはただ呆然とその様子を見上げていた。が嘲笑する声が聞こえた。
「あなたがここにいるのはきっと奇跡。けどあってはならない奇跡。だから……せめて、私にできることを」
少女が右手を水平に捧げる。大地が音を立てて盛り上がり、細い石柱となって彼女の手に収まる。ヴァルガは無意識のうちに立ち上がっていた。
「迷える魂に、天への道筋を示したい」
黄土色の輝きが広がる。岩石が極限まで凝縮され、鏡面のような光沢を持つ一振りの剣が現れる。
「それが、戦人たる私の使命です!」
少女が剣を振り上げる。