小説『鎧ノひと【全77話 完結】』
作者:wanari()

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 第四章 参戦(すくい)ノひと

 


 彼は、周囲から二の研者と呼ばれていた。

 数多くの生徒を従え、創造館の中でも高位の地位にある彼の名声は高い。研究者として鋳魂炉の中枢に入ることができるのは、彼を入れてほんのわずかしかいない。それは来るべき崩壊の時に、世界を、つまりは鋳魂炉を維持する責務をその背に帯びていることを意味している。

 しかし同時に彼は、興味ある対象のこととなると見境がなくなる――いわば『変人』としての側面も持っていた。研究分野毎に強固な壁がそびえ立つ中、彼は自分が面白いと思った案件については、そういった慣習・感情を堂々と無視するのである。

 その彼が、至極機嫌良く廊下を歩いている。見る人が見れば、それは周囲にとって厄介事が起きる前兆であった。

「ふふ……ふふふ」

 我慢しようとしても溢れ出す笑み。押さえきれない興奮が気味の悪い声となって周囲に漏れ出す。くたびれた白衣に痩せた頬、健康とは程遠い顔貌に張り付いたその表情は、付き合いの長い生徒をして一歩退かざるを得ないものだった。

「先生……ご機嫌ですね」

「ふ。そう見えるかい。そうだね。そうだろう。これほど愉快な、いや……楽しみなことはついぞなかったからな! そう、これは世界の崩壊という未曾有の危機が生んだ、革命的発想の光なのだよ!」

 虚空に向かって力説し始める。こうなると本人が満足するのを待つか、物理的に黙らせるかの二者択一しかない。二の研者の隣を歩く生徒は、黙って耳を傾けた。

 世界の根幹を揺るがす機会。二つの理の融合体。来訪者であり、かつ訪問者――滑らかになった二の研者の口から大仰な文句が次々と飛び出す。

 もともと創造館の研究者が手がける分野は幅が広い。歴史学、活力学などから始まり、薬学、医学、建築学、農学など鋳魂人の生活を支える学問を日々研究している。

 当然――鋳魂界の滅びの回避方法についての研究もなされていた。だが、そのほとんどはすでに机上の空論と化してしまっている。滅びは不可避として、運命論的に受け入れる風潮が支配的となっているのだ。その意味で、彼らにとって運命という概念はある種不可侵の、いわば魂に刻まれた不文律なのである。

 それ故か、特にここ最近の研究者たちの無気力ぶりは目を覆うようであった。いくら研究を重ねようと、実績を残そうと、もうあといくばくかでそのほとんどが意味を失うのだ。物事を深く掘り下げていく彼らだからこそ、突きつけられた事実を否応なく認識してしまうのだ。

 唯一先に進んでいるのが、『いかにして鋳魂炉を維持するか』の研究であり、それはおおむね、完結してしまっている。

 二の研者は鋳魂炉維持研究の中心人物であったが、最近の彼は、しきりに運命への抵抗を口にするようになっている。

 きっかけはもちろん、例の鎧人の件だ。

 残念ながらいまだ捕獲には至っていないが、それも時間の問題であろう。突如として現れた異質な存在に対して関心を抱いているのは、何も二の研者だけではない。

 気の早い彼は、被験者が側にいないにも関わらず、あのわずかな接触の記憶とこれまで積み上げてきた対外活性素防護装具の研究情報だけを手がかりに独自の見解を得るに至っていた。

 彼ならば鋳魂界を救える――それが二の研者の結論である。しかし困ったことに、二の研者はその根拠を仲間に示そうとしなかった。

 きっと彼の頭の中では壮大な計画が展開されているに違いない、と生徒は思う。あのいつも以上に気味の悪い笑みはそれが原因だろう。あれこれと空想を巡らせることが楽しくて楽しくて仕方ないのだ。

 無論、そんな状態の二の研者の言葉が周囲に受け入れられるはずはない。百年を超える時間によって醸成された価値観は、そう易々と覆されない。残された時間もない。鋳魂人の寿命が十年から十五年程度であることを考慮したとしても、五十日という期間は短い。ましてやこれから新しく何事かを成そうとするなど、論外だ。それならば、最後の一瞬まで自分の役割を貫徹することの方がまだ意味がある。百年の大流とはつまり、そういうことなのだ。

 これまで多くの成果を上げ、それに見合う尊敬を集めてきた二の研者であったが、今回ばかりはたとえ生徒であっても彼に懐疑的な意見を持たざるを得なかった。

「しっかりしてください、先生。これから炉者の方と中心部の調整に向かうのでしょう? 『存界面(ぞんかいめん)』は一応の完成を見たとは言え、まだまだ先生の力が必要なのですからね」

 存界面とは鋳魂炉を『光の壁』の影響から守る結界のことである。光の壁は、いわば活力という栄養を失って飢餓状態にある世界を具象化したようなものであるから、逆に豊富な栄養を常に巡らせていれば消えることも崩壊することもないという理屈の上に成り立っている。つまり――限られた食料を分配することなく、鋳魂炉の維持だけに当てるため、鋳魂炉の内と外を完全に遮断してしまうのが存界面である。

 言うまでもなく、それは鋳魂炉より外に住む住人たちの消滅を意味していた。

 生徒の言葉に二の研者は鷹揚にうなずいた。

「おお。わかっているとも」

「本当ですか? 別のことに気が回って調整失敗――なんてことだけはやめてくださいよ。いざ存界面を起動させるときに機能不全に陥ったら、百年の大流を根本から断つことになるんですからね」

「無論だとも。存界面は私の子どものようなものだからな。それに、ここまで来れば私がいなくともそう変わりはないさ」

 相変わらずの弾んだ声。生徒は疑念の詰まった視線を向けるが、結局は黙り込んだ。

 しばらく、廊下を叩く軽やかな足音が続く。この辺りは鋳魂炉の管理者たる炉者の矜持なのか、人が十分に行き交えるほどの広さの廊下には埃一つなく、鏡面のように磨き上げられている。ただいつもなら点灯しているはずの明かりが所々消え、隅にぼんやりとした闇が溜まっていた。



 視線の先が、いつもより暗い。――ずっと、暗い。



 二の研者の足が止まった。

「……誰だい。そこにいるのは」



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