第六章 前哨(まえぶれ)ノひと
何だ。
何が起こっているんだ。
目の前に広がる大平原。並び揃う槍の穂先。自分を射る険しい視線。
彼らが装備する鎧は、かつてヴァルガもその身にまとっていたものだ。シュティセア軍が正式配備する軽鎧――彼らは間違いなく、決死の抵抗を誓い集った人間たちの集団だ。
それが、何故、自分たちに牙を剥いているのか。
いや、わかっている。彼らは自分たちの使命を果たそうとしているだけだ。けれど、そう。何故、今、この場なのか。
「ヴァルガさん、二の研者さんがっ」
ナナの声に我に返る。背後を見ると、ぼろぼろになった黒の布(マント)をかき抱きながら、二の研者がうずくまっていた。激しく震え、激痛に耐えている様子がわかる。
「き……にしないでくれ、たまえ……。予想できていたことだ。すぐに……よくなる……。何なら、私の様子を……き、記録してほしいのだが、ね……」
『こんなときに馬鹿を言うな』
「とにかく、すぐに休ませてあげないと」
ナナが焦りの声を上げたとき、地響きが起こった。
万を優に越える人間たちが、一斉に進軍を始めたのだ。
「ひっ……!」
たった三人――人間たちにしてみれば二人――を相手に、無数の槍衾(やりぶすま)が巨大な波となって襲いかかってくる。後方からは弓の一斉射が始まっていた。光も見える。天術まで練っているのか。ヴァルガは心の中で叫んだ。
二の研者を抱えろ、ナナ! 逃げるぞ!
え、え!? でも、あれは人間の皆さんで……ヴァルガさんは。
『話の通じる状況か馬鹿っ!』
ヴァルガは怒鳴った。ヴァルガもあそこにいたからわかる。軍というものは、一度動き出せば簡単には止まらない。いや、止まれない。最前列にいる連中の血走った目を見れば、なおさら明らかだ。
『ちくしょう!』
ここにきて、理解してしまう。
自分たちはどうやら、最悪の機(タイミング)に、最悪の場所へと降り立ってしまったのだと。
いまだ震えの止まらない二の研者を抱え上げ、ヴァルガとナナは走り出した。力強い踏み出しが雑草の生える土を抉る。鎧の力があれば、いかな大軍であろうとも振り切れると考えたのだ。
しかし二十歩も進まないうちに、彼らは足を止めた。
その眼に、再び信じられない姿を捉えたからだ。
地平線が見渡せる丘のふもとに、いくつもの影。広大な平原の中でも決して小さくはない規模の彼らは、そのほとんどが人の形をとっていなかった。あるものは四つ足で歩き、あるものは上半身を異形に変化させ――
『魔獣……だと』
「おかしいです。今、人間界にこれだけの数の戦人がいるなんて聞いたことありません」
ナナが呆然とつぶやいたとき。
魔獣の群れもまた、ヴァルガたちに向かって一直線に突進してきた。彼らの体表面に走る紫電のきらめきが、あたかも地表に蠢く大蛇のごとく迫ってくる。
ひゅん、とヴァルガたちの脇を矢がかすめる。地に突き刺さった矢は瞬く間に数を増やしていく。
前方には正体不明の魔獣。
後方にはシュティセア軍。
「い、一体どうしたら」
『く……』
刻一刻と迫る激突の時。砂煙が、地響きが、怒声が、ヴァルガたちを痺れさせる。
『ナナ、走れっ! 後ろだっ』
「え、えっ!?」
『人間たちの中へ突っ込め!』
咄嗟に叫んだ。すでに人間、魔獣双方によって周囲は囲まれている。ならば、すこしでも生存の可能性が高い方へ賭けるしかない。自分たちの『今のこの姿』を信じるのだ。
二の研者を胸にしっかりと抱き、ナナは踵を返した。猛烈な勢いで、槍衾のただなかに真正面から突っ込む。予想外の動きに虚を突かれ、兵列にほころびができる。その間を縫い、ヴァルガたちはさらに陣の奥へ奥へと突き進んだ。
お前は今、曲がりなりにも人の姿を取っている。戦場で興奮している兵の中なら、うまくすれば紛れ込めるかも知れない。機を見て、脇から離脱するんだ!
は……はいっ!
身をかがめ、兵の視線に晒されないようにしながら、それでも、怒濤の進軍の只中を逆走するのは容易なことではなかった。兵の一人に蹴り上げられ、姿勢を崩したところに次々と兵に押され、ついには膝を突いてしまう。
二の研者を守れ! 踏み殺されるぞ!
大地に伏せると、その振動がより直接的に伝わってくる。時折激しく揺れるのは、騎馬が駆け抜けているためか。たとえ巨体を押し返す力をこの鎧が秘めていようと、触れた空気に染みこむ戦いの臭いを無視はできなかった。身体が動かない。動かせない。
……一番てっとり早いのは、敵味方関係なく暴れ回ることだ。
ふと、ヴァルガの脳裏にそんな考えが浮かんだ。だが、駄目だった。あれほど戻りたかった人間界で、あれほど会いたかった人間たちに牙を向ければ最後、自分が自分でなくなってしまう強烈な不安があった。
そしてヴァルガはまた、魔獣たちを、鋳魂界を知ってしまったのである。彼らをただ闇雲に退けることなど、今のヴァルガにはできなかった。それに――魔獣に立ち向かうことはすなわち、ナナにそれを強要させることを意味するのだ。
ナナが小刻みにむせぶ。魔獣化していたときには感じていなかった現実的な恐怖が、彼女を苛んでいるのがわかった。二の研者は、彼女の腕の中でなお辛そうに身を固めている。
どうして、こんなことを。
ヴァルガは心の中で、強く唇を噛みしめた。
人間は、ただ怯えているだけで。
鋳魂人は、ただ平穏に暮らしているだけで。
なのに、どうしてっ。
『変えてやる……』
ヴァルガが漏らすその声に、ナナが瞑っていた目を開く。
『人間と鋳魂人が争うなんて……こんな馬鹿げた状況、絶対に変えてやるんだ!』
「まさかこんなところで、そのような台詞が聞けるとはな」