しばしの、沈黙。
「私がこうしているのは、修行などではない。単なるわがままだ」
突然、ミリッツがこぼす。その視線の先を追うと、あの豪奢な寝台があった。
「昼間……私と共にいたアドラス殿を覚えているだろう?」
「え……あ……、はい。その。とても高貴な方なんだろうなあと」
「そうだ。あの方は北部大陸の雄、ハルティス共和国の重鎮のご子息だ。ゆくゆくは国を背負って立つ器の持ち主。それが此度の皇々神姫様の御予言を受け、国のため、世界のためにと、喜んで国政の席を蹴って来られた人徳ある方だ。田舎の、それもすでに滅ぼされた村の出身に過ぎない私には、本当に不釣り合いなほどだよ」
次第に、ミリッツの瞳が遠くを見据えるようにかすんでいく。口元にはいつの間にか、引きつるような苦笑が浮かんでいた。
「そんな素晴らしい人がだよ。この私を伴侶として迎えてくれるというのだ。こうして……いざそのときが近づくにつれ、どんどん信じられなくなって。とっくに決めたはずなのに、時々わからなくなるんだ」
「そのとき? わからなく?」
「ナナ。実はね、この部屋は私だけの部屋じゃなかったんだ。正確には私と、アドラス殿の寝室。あの寝台には、二人で寝るんだ。いや、寝たんだ」
ぴくん、とナナの身体が硬直した。自身の変化に、何だろう、とナナは眉をしかめる。
「私の髪に触れた手のひらの感触。自分と、相手の息づかい。身体が寄り添うときの衣擦れの音。服に手は……かけられなかった。そこで怖くなってしまったんだ。伝わってくる体温ごと、凍り付いてしまいそうな、何かで……。覚えているのはそこまでで、そこから後は、何が起こったのか……気がつくと私ひとりになっていたから、ああそうなんだな、って思うようにはしている。だけどそれ以来……あの寝台には近づくことすら、できないんだ。おかしいだろう?」
「ミリッツさん……」
「ごめん、こんな話をして」
ミリッツは頭を下げる。そしてもう一度、「ごめん」とミリッツは繰り返した。ナナではなく、ここにはいない誰かに向かってつぶやいているようだった。
何故謝るのか、よく理解できない。ただ、わずかに覗いたミリッツの表情を見たナナは、彼女がどことなく、苦しんでいると感じ取った。瞳が揺れている。
だから無意識のうちに言葉が口を突いた。
「大丈夫ですよ」
「……え?」
「つらくたって、きっといつか、わかってくれる人に出逢うことができます。励ましてくれる人に出逢うことができます。だから……大丈夫ですよ」
何か言いかけて、ミリッツは力なく口をつぐんだ。大きく、息を吐く。
「やっぱりあなたは、変わった人だ」
「は、はあ」
「誉めているんだぞ? ふふ……」
首を傾げるナナの前で、ミリッツは椅子に深く背を預けた。
就寝時間を告げる鐘の音は、もうどこからも聞こえない。ミリッツが目を閉じたまま、次第に深く静かな息をし始めたのを見て取って、ナナは踵を返した。
「……聞いてくれるか、ナナ……」
寝言のような、小さく途切れ途切れのつぶやき。ナナは返事をせず、ちらりと後ろを振り返る。ミリッツは目を閉じたまま、ゆっくりと唇を動かす。
「……私には、兄がいた。血は繋がっていないけど……子どもの頃は本当の兄妹のように仲が良かった。すごく強い人で……何より優しかった。……私はずっと、兄を守れるような……兄の側で戦えるような、そんな人間になりたかった……。だから軍で再会できたときは、本当に嬉しかったんだ……嬉しかった。……兄は私のせいで……弱くなって、いや……自分を抑えて、自分は弱いと勘違いしていたから……せめて、少しでも……私は口が悪いから、上手く伝えられなくて……本当は、もっと素直にお兄ちゃんって、呼びたかったのに……いない、姿に……だから……ごめんって……」
――何となく、これ以上聞くべきではないという直感が、ナナの心に働いた。
足を動かそうとして――戸惑う。一歩も動けない。
ぽたん、と小さな音がした。
「……おにいちゃんは……私をゆるして……くれる、だろう、か……」
切れ切れの、つぶやき。それきり、彼女の口からは静かな呼吸が漏れていく。
そっか。ミリッツさんにとっても大切な人なんだね。
ヴァルガさんの想いと、同じくらいに。
「………………」
大丈夫ですよ、と口にしたつもりだった。だが代わりに表れたのは、喉の奥が締めつけられたような、かすかな呻き。無意識に引き結んだ、唇の強ばり。
そしてふと気付く。
ぽたん、ぽたん、ぽたん――
続けざまに耳に届く、音。
動けない身体を何とか叱咤し、左手を顔に持ってくる。
その指先にまた――ぽたん。
「私……泣いてる?」
止めどなく、幾筋も幾筋も頬を伝い滴る、涙。
震えを自覚する。
声なき慟哭を感じ取る。
胸を掻きむしるような痛みが伝わってくる。
これは――
「ヴァルガ、さん?」
呆然とつぶやいた、そのとき。
「……どうして」
振り返る。涙滴が虚空に散った。半目を開いたミリッツが、ナナを見ていた。
「どうしてあなたが、兄の名前を……?」
「えと……その」
言いよどむ。しかし涙は次から次へと流れてくる。ミリッツは黙り込んだ。いつの間にか彼女は半身を起こし、爛々と輝く瞳をナナに向ける。
その表情を目の当たりにしたとき――ナナは悟った。ヴァルガがこれまで、頑なに口を閉ざしてきた理由を。致命傷を負った兵士が今際(いまわ)の際に流す血のように、とめどなく涙と苦痛を溢れさせて、すべてを、彼は受け止めようとしている。ひたすら内に、内に、心の奥底へと。
「あなたは兄を、ヴァルガ=バークホルドを知っているのか」
「それは」
「もしかして……もしかして、兄は生きているのか? そうなのか!?」
後生だ、ナナ……。
唐突に響く、相棒の心の声。
ミリッツを、俺の大切な人を抱きしめてやってほしい。後は、俺が言うから。俺が、俺の声で、『生きているよ』って、伝えるから……。
「……」
「なあ、ナナ。どうして黙っているんだ? どうして泣いているんだ? 教えてくれ、お願いだから……」
こんな姿だけど、俺は確かにここにいるって。その後なら、死んだっていい。あいつに苦しい思いをさせていたなんて知らなかった、だからもう、その後なら、いくらでも我慢する。この気持ちを、押し込める。だから。
「……」
「お願いだ、ナナ!」
お願いだ、ナナ。
せめて、今だけは――
「………………知っています」