眼下に赤い光が見えた。数え切れない小さな輝きが、ゆらゆらと揺らめきながら進んでいる。数から見て、旅団規模の軍勢だ。しかしやけに行軍速度が緩やかなのが気になった。
目をこらし――唸る。
赤い光は松明などではない。爛々と両の眼(まなこ)をぎらつかせた、魔獣の群れだったのだ。人間界へ戻ったときに目にした数より、さらに多い。一体どこから湧いてきたのか――
「まさか……」
後ろを振り返る。暗闇で半ば隠れてしまっているオティタ。一昼夜ほどで、ほとんどの人間が表から姿を消した街を見る。
魔獣に変貌していく人々が、脳裏をよぎった。
再び眼下の魔獣を一瞥したヴァルガは、さらに速度を上げて目的地へと飛んだ。
今は奴らを相手にしている時間はない。それよりかは、この事実を早く伝えた方がいい。最悪、俺の姿を見れば否が応でも警戒の度合いを上げるはず。そうすれば結果的に魔獣の早期発見にも繋がる。
アデルという女は、おそらく本気で人間たちを潰す気だ。思えば、これまでにも会話の端々にその空気を匂わせていた。ただ目的は今もってまったく不明。相変わらず底が知れないと思う。
ミリッツが心配だ。
「あ……」
無意識の内に噛みしめた唇から声が漏れる。
視線の先に光が見えたのだ。松明などといった小さなものではない。まるで大地それ自体が発光しているような、巨大な円形の光だ。ヴァルガはゆっくりと速度を落とした。
あれが儀式の場か。
儀式の場をぐるりと囲うように並ぶ、いくつもの大松明。橙色の揺らめきに照らされ、大小様々な天幕が浮かび上がっている。馬の嘶(いなな)きが断続的に聞こえてきた。金属が擦れる音が幾重にも幾重にも重なり、決して大きくはないが重いうねりとなって皮膚を泡立たせる。明かりは等間隔に、地平線を埋め尽くすほどにまで広がっていた。
呆然とつぶやく。
「……何て、数だ」
十万では到底収まらない。優に五倍、もしかしたら十倍はあるかもしれない。一日や二日で用意できる軍勢ではない。何十日も前から、この日のために集結させたとしか考えられない。
思い出す。人間(シユティセア)軍の全兵力はおよそ百万。ならば、ここには人間世界、ほぼ全ての兵力が集まっているということにならないか。
――正気の沙汰とは思えない。
だが、今ここで軍のあり方についてあれこれ考えている余裕はヴァルガにはなかった。
突如、わあっ、という喚声が沸き起こる。光円の周囲から発せられた声はやがて全軍に伝播し、文字通り大気を震わせる喧噪に取って変わった。
目をこらす。光の中に、人影が現れていた。二つ――どちらも真っ白な外套を身にまとい、光の中に半ば輪郭を溶け込ませている。
皇々神姫様、万歳!
我らに勝利を!
我らに光を!
レニーカシュナ様、万歳!
怒濤のように押し寄せる喚声の嵐に、唱和の声が混ざった。同時に、光円の人物の片方がゆっくりと手を上げる。
どうやら間に合った――ヴァルガの口元に微かな笑みが浮かぶ。もちろん片時も油断はできない。だが、普段はまったくと言っていいほど衆目に姿を晒さない皇々神姫が、自らこの儀式の場に現れたということは、ヴァルガにとって願ってもない好機だった。
機を見て乱入し、あの方に直談判をする。
『封印を解除するための助力に来た』というただ一点に絞って訴えれば、少なくとも無視はできないはずだ。時間がないのは向こうも同じ。最悪――皇々神姫を人質に取ることができれば、問答無用でこちらの流れにできる。
落ち着け。まずは儀式の始まるぎりぎりの機を見極めるんだ。
今この場所からなら、間を置かずにあの光円に飛び込める!
皇々神姫に促され、もう一人の人物が羽織っていた外套を取った。
清冽な銀が、光を吸ってさらに深く輝く。
「……!」
結節御子――ミリッツの悲愴な目が、ヴァルガにも見えるようだった。叫びそうになる喉を必死に抑えた。
皇々神姫の指先に額を触れさせるように、ミリッツが跪く。腰衣がふわりと、白い大地に咲き広がった。それを見た皇々神姫が、身につけていた外套をゆっくりとした所作で取っていく。
ヴァルガの目はすでに血走っていた。その瞬間を絶対に逃すまいと、身体の内に力を溜めていく。溜めて、溜めて、ありったけを引き絞る。
もうすぐ行くぞ。ミリッツ。
呼吸すら止めた。時間が引き延ばされ、音もどこか遠くに消えた。
極限の集中の中、ついに、光円に変化が訪れた。一際眩く輝き、ミリッツを中心に螺旋を描きながら天へと昇っていく。
その時が、訪れたのだ。
――ヴァルガは、動かなかった。
「……………………」
絶句の、その先で。
全人間の指導者にして至高の予言者たるにふさわしい峻厳な表情を見せながら、皇々神姫が天を仰ぐ。
その顔は、まさしく――アデルだった。