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「それがあの方の望みなれば」
短くつぶやいたその言葉に、隣にいた参謀長は眉をしかめた。これから最高にまずい料理を食べなければならない者の顔に似ている。
ネクロス=ディオ=カシュナは泰然とした表情を崩さない。光円から数歩ばかりさがった場所に立ち、突然の闖入者を無言のまま見つめている。
黒い翼は人間ではあり得ない。闖入者が皇々神姫と結節御子のもとに降り立ったとき、周囲にいた兵が殺到しようとしたのは当然の成り行きだった。
ネクロスはそれを厳に禁じた。
「これも予言のうちさあね。手を出すな」
皇々神姫を除けば実質的な最高司令官である男にこう命じられては、周囲は従わざるを得ない。ただ光円の周囲は何千という兵が幾重にも囲っている。突発的な事態に命令が行き渡らず、あちこちで騒ぎが起きていた。
どこかの分隊が、制止を振り切って光円の中心に走る。
黒翼の闖入者がとっさに結節御子を抱きかかえ、その翼で守るように身を小さくする。
次の瞬間――兵たちにはっきりとわかる動揺が広がった。
皇々神姫が、彼女らを守ろうとする兵らを天術で吹き飛ばしたのだ。『何人たりとも邪魔はさせない』と、そう告げているように。
「……全軍、戦闘態勢に入れ。天術隊は詠唱を維持。魔獣の襲来に備えよ」
ネクロスの声に、とりわけ参謀たちの動揺はさらに深まった。彼らがしきりに何かを訴えてきたが、ネクロスはまったく聞く耳を持たなかった。
ネクロスは知っている。
彼女――皇々神姫レニーカシュナの意志を。
彼女が何故、市井に身を投げ出してまで魔獣の種を人間に植え付けてきたか。何故、大量の犠牲者が出ることも厭わない戦い方に終始したのか。何故、彼女を守ろうとする手をあえて振り払うような真似をするのか。
ネクロスは知っている。
これから彼女がやろうとしていることも知っている。
そして――ネクロス=ディオ=カシュナとしての役目がこれで終わりを迎えることも知っている。
彼女の脳裏に浮かぶこの先の未来に、ネクロスの姿はない。
――光に誘われ、羽虫があちこちに群がる姿を見る。一匹がネクロスの肩に止まった。何気なく指先を向ける。小さな身体を揺らして、彼の指腹を羽虫が這い上がっていく。
奇妙な親近感とともに彼は思う。ならば。ならばこそ――と。
「気をつけろぉ。相手はとびきりに、強い。強くなるさ」
「司令……あなたには、一体何が見えているのですか……」
呆然とつぶやく参謀に、ネクロスはにやりと笑った。底意地の悪い、だが妙に生き生きとした笑みであった。
「絵だね。咎人を私が解き放つ、実に清々しく美しい終焉さあ」
羽虫が指先から静かに飛んだ。