◆
夜が明けた。
平和な時分なら涼やかな草原地帯であるところのゾーエン平野は、今、陽光を浴びてその地獄を見せつけている。
折れた剣、砕けた鎧、風に流される旗、そして血にまみれた人間の身体。頭、脚、腕、胴体――
人間側の損害は約一千にも上っていた。
たった一晩で、ここに集結した兵力の三分の一を失ったことになる。深刻な損害だ。すべて、突如として出現した数十体の魔獣によりもたらされた。
中央方面軍最高司令御付武官兼視察官ネクロス=ディオ=カシュナは、死屍累々と横たわる骸を遠目に、青白い顔をしていた。戦地でもあまり見ることのない最上位級の魔獣が複数出現したという情報を受け、彼と彼の率いる部隊が駆けつけたわけだが、実際は単なる予備兵力――もっと言えば見物人に過ぎない。味方が次々と原型もとどめない肉塊になっていく様を眺めるだけであった。
「視察官殿」
部下のひとりが遠慮がちに声をかけてきた。
「我々も加勢するべきではないでしょうか」
「駄目」
一言のもとに切って捨てる。恐怖に震えているのか、と部下は勘ぐったが、次の瞬間にはそれが思い違いであることを悟る。断片的な口調も、血の気が引いた青白く恐ろしい顔も、異様に冷静で非情なところも、すべてネクロス=ディオ=カシュナたる所以なのだ。
その証拠に、彼は手元の資料を機械的にめくっては戦場に目を遣ることを繰り返していた。部隊別の名簿だと部下は記憶している。
こんなときにも部隊の品定めか――部下が内心で舌を巻く。同時に、このところ中央方面軍の間でまことしやかに囁かれている噂が脳裏をよぎった。
魔獣は人間を狩るだけでは飽きたらず、仕留めた獲物を新たな下僕として従えるという――いささか常軌を逸したものだ。
ただ。どこからともなく突如として湧いてきた魔獣の群れ、そして現在の戦況を併せて考えるならば、噂が全くの虚言だと断言できなくなってしまう。
部下は不意に、恐ろしい発想に思い至った。ここにきてレニーカシュナ、皇々神姫の予言に翳りがでてきたのではないか、と。
「あほう。ばかちん」
「は?」
「負けてる? 負けてないよ、まだ。負けてない、よ」
表情を一切変えずに、言う。
そういえばこういう人だったな、と部下は自らの記憶力のなさに呆れた。これであの皇々神姫の右腕を務めているというのだから、世の中はわからない。
「あれ、試してない」
名簿をしまい、ネクロスは言った。
「生くるべきは生きてる」
「不動を狂わす大震(シュテリメリオン)、ですか」
部下の顔に緊張が走った。ネクロスは顎先だけで戦場の一角を示した。戦死した兵士たちの脇、魔獣たちが一カ所に集まりつつある。その周りで動いているのは、夜明け前に合流を果たした囮部隊の面々だった。比較的無傷な彼らが、傷ついた味方を背に奮戦している。こんな状況で不謹慎かとは思ったが、部下はその内の一部隊に興味を持った。
遠目でもわかる、若い人間が大半を占めている隊だ。とりわけ先頭に立っているのはまだ少女と言ってもよい年齢に思える。にもかかわらず、戦い振りはまさに獅子奮迅の苛烈さだった。その気迫は周囲の隊に伝播し、全隊の士気向上にもつながっている。
「ほう……」
「剣も生きている。我らの仕事は見ること。伝えること。それだけ」
部下は納得した表情で口を閉ざした。
しかし、戦況はなかなかに厳しかった。
あの少女部隊の活躍を持ってしても、損害が出ることは避けられない。魔獣は当初の計画通り一カ所に集まりつつあるが、裏を返せばそれだけ味方が混戦に巻き込まれることを意味していた。このままでは魔獣もろとも被害を被ってしまう。
ネクロスたちの元に天術完成の報が届いた。部下は眉をひそめた。部隊を指揮する大隊長は、この混戦の中であれ(・・)を発動させる腹づもりらしい。ネクロスを見ると、彼は「ごくろさん」と一言言ったきり、相変わらず無表情で戦場を眺めている。
戦場から少し離れたところで動きがあった。後置されていた天術部隊が一斉に術を練り始めたのだ。暁の陽光とは別の輝きが平原を覆う。
それを見た兵士の胸の内に走ったのは安堵か、それとも動揺か――均衡を保っていた前線部隊が突如として崩れた。暴れ狂う魔獣たちの波に呑まれるように、次々と撃破されていく。あの少女部隊も同様だった。
部下は一瞬、息を呑んだ。味方が蹂躙される様を目の当たりにした少女が、悪鬼のような形相で吼え立てたのだ。
蒼い光が戦場を覆う。人間一人が生み出したにしては、あまりにも強く猛々しい。
水の天術には違いない。しかし、どんな天術書にも記載のない力の波動、輝き――
「ほっほう」
ネクロスがつぶやく。
「『名前なき顕現』。この世に生まれ出た新しい術! あの年で。楽しいね、実に」
びくり、と部下は肩を震わせた。ネクロスが小さな、そして何故か自嘲の混じった笑いを浮かべていたのだ。
中空に出現した粘性の液体が、雨のように魔獣たちに降り注ぐ。強烈な酸を含んでいるのか、触れた魔獣の皮膚が煙を上げて爛れていた。悪臭が遠く離れたこちらまで届いて来そうだった。
「これは……強烈な」
「面白い。どろどろした怒り、憎しみだ。はっは! 強烈、そのとおり! そして、見ろ」
ネクロスが、何とも言えない、にやっ、とした表情を浮かべた。
天術の光が弾けた。
部下は無意識のうちに首筋に手を当てた。確かに今し方、後ろ髪が逆立つ感覚を覚えたのだ。空気が、冷や汗の出るほど重くなっている。
耳に音が届かない。戦場ではありえない完全な沈黙。
それが、
「来る」
突如として平原を砕く大激震に取って代わった。