テーベの村。
四方を霧深い山に囲まれ、村の中心を小川が流れる、自然豊かな村。
そんな村の外れを一人の少年が歩いていた。
年は14、5才位。
明るいグリーンの瞳に、綺麗な茶色の髪の毛がさらさらと揺れている。
綺麗な顔立ちだが、今はその顔にでかでかと『退屈だ』と書いてあった。
少年はオレンジを売る露店に近づき、一つ取ろうとした。
「あぁ!オオカミ少年だ!」
その声に少年はオレンジに伸ばしかけた手をピタリと止めた。
「オオカミ少年!」
「嘘つき少年!」
囃し立てているのは、近所の小さな子ども達で、この子ども達は少年を見つける度にこう叫ぶのであった。
少年は気にする素振りも見せず、大きなまあるいオレンジを手に取り、黙って店主に差し出した。
すると、少年の差し出したオレンジを、露店の店主は嫌そうな顔で見た。
「悪いが、嘘つき少年に売ることのできるオレンジはないんだ」
少年は仕方なくオレンジを店主に渡し、踵をかえした。
「やーい、オオカミ少年」
「嘘つき少年!」
後ろから先程の子ども達が囃す声が聞こえた。
ちょっとイライラしていた少年だったが、相手にするのは時間と体力の無駄だと考え、無視して歩き始めた。
「耳も悪いのか」
「頭だけじゃなくて」
「顔も女みたいだし」
「もやしだもんな、アイツ」
確かに少年はよく見ると整った顔立ちをしていた為、何も知らない旅の人や行商人に少女に間違われる事もしばしばあった。
しかし、子どもたちのその言葉に少年は堪忍袋という袋のおが切れるのを感じた。
「うわあ、オオカミ少年が怒った!」
「なんだこいつ、強いぞ!」
「逃げろ!」
「うわああああああ!」
子ども達はあわてふためいて逃げていき、そこにはため息をつくオオカミ少年だけが残された。
すると後ろから
「なにしてるの!?」
と鋭い声がした。
少年が後ろを振り返ると、一人の少女が仁王立ちしてこちらを睨んでいるのが見えた。
栗色の髪を腰まで伸ばし、頭には水色のリボンを結んでいる。
洋服もそれに合わせた水色のワンピースを着て、白い肌に丸い大きな目。
少女は少年より少し背が高くて、少年より少し年上に見えた。
「今、子ども達をいじめていたでしょう」
少女が言った。
「いじめてない、凝らしめただけ」
少年は口を開いた。
久しぶりに喋ったので、少し声がかすれてしまい、ちょっと恥ずかしいなと思った。
「でも、私みたわ。貴方が子ども達をいじめていたところ」
少女がなおもいい募るので、少年は少し面倒になった。
「やってない」
少女はしびれを切らしたようでいきなりそばにあった樽を両手で掴んで持ち上げた。
普段滅多に驚かない少年も流石に大きな目を見開いた。
少女が軽々と持ち上げた樽の中には葡萄酒が並々と入っているのを少年は知っていたし、
また、その樽が重さにして悠に20kg程度はあることも少年は知っていたのだ。
そんな重いものを華奢な少女が軽々と抱えあげて、しかもこちらを睨んでいる。
「な、何してるの…」
少年は自分の声が微かに震えるのを感じた。
「口で言ってもわからないなんて…!」
次の瞬間
少女は樽を少年に向かって投げつけた。
普段滅多に感情を表に表さない少年の顔に恐怖と驚きの表情がよぎった。
少年は頭を庇ってみちにうずくまったが一瞬遅く、樽がその手を直撃し、
路地に少年の押し殺したような叫び声がこだました。
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「痛っ!」
広い部屋に少年のうめき声が響き渡った。
少年は少女の家に居た。
少女の投げた樽が少年の手を直撃した時に怪我をしてしまったためである。
少女は怪我をした手を見ると慌てて嫌がる少年を自分の家に引っ張って来たのだった。
「ごめんなさい、まさかこんな怪我をするなんて思わなくて」
少女は赤く腫れた少年の手をタオルで冷やしながら謝りまったが、少年は深々と溜息をついた。
あんなに重い樽を投げれば怪我だってするだろ…。
少年はココロの中でまたため息をついたが、言葉にはしなかった。
少年は、下を向いて目を閉じた。
「ねえ、あのさ」
少女が下を向いて黙っている少年に遠慮がちに話しかけた。
「なに」
少年は目を閉じたままで答えた。
「キミ、名前は?私、イオリっていうの」
少年は、応えられなかった。
だって少年には、自分の名前がなかったから。
「ねえ、聞いてる?」
少年は目を開けた。
「おれ、名前ないから」
「え」
イオリが少年の手を冷やしているタオルをベトッと下に落とした。
「あ、ごめん」
イオリが慌てて床に落としたタオルを拾って、水に濡らして少年の手に置いた。
「ねえ、名前ないってどういうこと?」
少女が遠慮がちに尋ねた。
「……」
少年は黙って貝がらのように口を閉ざしたまま答えようとしなかった。
「あの。もしもし」
少年は、自分の名前を覚えていなかったので、答えようにも答える事ができなかった。
そこで、今みんなに呼ばれている名前を少女に教えようと口を開いた。
「オオカミ少年。」
少年にとって、それは「名前」だった。唯一、みんなに呼んでもらえる、名前。
なのに。少女は両手を腰に当てて、少年をにらみつけた。
「なによそれ、そんな名前聞いたことないわ。」
「だってこれが、俺の名前なんだ」
少年は言った。これしかないんだ、今の僕には。
その時、家のドアを誰かがノックした。
「ん?誰だろう?」
イオリがドアを開けると、そこにはオオカミ少年と同じくらいの年齢の少年が立っていた。
「あ、ハルト」
その少年は、イオリの知り合いのようで、少女の頭越しに少年をじっとねめつけた。
真っ白のYシャツに、紺色のベストをあわせ、少年と同じように襟元にはループタイが巻かれているが、
少年のソレと比べて、ハルトのループタイの方が明らかに高級そうな感じを醸し出している。
ズボンはシワひとつなく、ピシっとしていて又瞳はキラキラを輝き希望と自信に満ちあふれていて、オオカミ少年には、何もかも自分と正反対な様にみえた。
少年はサッと立ち上がった。少年は、ハルトの事を知っていた。
ハルトは、村長の息子で、なぜか少年の事を目の敵にしていつもいつも嫌がらせをしてきたからである。
「ん?なんでこんな所に嘘付き少年がいるんだ?」
ハルトは、少年を見つけて吐き捨てるように呟いた。
ハルトは、嘘付き少年のことが大嫌いでだった。嘘ばかりついて、いつも羊と遊んで暮らして。
すぐにでもこの村からツイホウするべきなのに。ハルトはいつもそう思っていた。
「ちょっと、やめなさいよ」
イオリが止めに入ったが、その時にはもう少年は踵を返してイオリの家を後にしていた。
後ろからイオリが少年のことを呼び止める声が聞こえていたが、少年は無視した。
「もう!なんであの子に嫌がらせするのよ!」
「はあ?イオリ、あいつなんて呼ばれてるか知ってるか?嘘付き少年とか、オオカミ少年とか…」
「何よそれ…」
「知らねえの?」
ハルトが目を丸くして言った。巷であんなに有名なオオカミ少年を知らないなんて。
「…知ってるよ」
イオリがハルトから目を逸らしながら呟いた。
オオカミ少年を知っている。でも
イオリはオオカミ少年が去っていった方向を見ながら長い髪の毛を物憂げに梳いた。
「そんな悪い人に見えないんだけど…」