小説『さいごの声』
作者:たれみみ()

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    ◎

 二度目の声は父のものだった。
 その時僕は大学三年生になっていた。
『裕介、お父さんが死んじゃったって』
 携帯電話の中から聞こえてきた母の声は妙に平坦で、機械アナウンスのようだった。
「あっ、何言ってるの?」
『今お父さんの会社から電話があって、船室のベッドの横で今日の朝、倒れているのが見つかって……』
 その後は聞き取ることができなかった。後から母に聞いたところでは、かろうじて支えていた腰が僕の声を聞いた途端に砕け、リビングカーペットの上にへたり込んで、呆然自失の状態だったという。
 父は遠洋航路の貨物船に乗っており、機関長として船の機関部を担っていた。
 父の遺体を乗せた船は、一旦グアムに停泊し、現地の警察によって事件性の有無を調査された後に、遺体に防腐処理を施し、宮崎に帰ってくるという。
 帰港予定日の前日、僕は母と共に飛行機で宮崎に向った。
 船の中に特別に作ってくれた三畳ほどの狭い安置所には、父の同僚が案内してくれた。 
 そして僕達は父と再会した。
 仮の棺に入った父の顔には、防腐処理をしたためか、かさかさに乾いた薄い緑色の肌が張り付いていた。
 父の死に顔を確認し、母はその場で泣き崩れた。その時だった。
『そうじゃ、もう一度見回りをしておかんといけん』
 父の声だ。その時既に祖父の“さいごの声”に接してから、十五年近くが経過していた。
 その間僕は一度も、人の死に目に会っていない。そして、いつしか祖父の声も、おぼろげな遠い記憶の一こまに変わっていた。
『そうじゃ、もう一度見回りをしておかんといけん』
 僕の意識を呼び戻すかのように、父の声が再び聞こえてきた。
「見回り?」と、小さく呟いた後、僕は愕然として固まった。父の言葉の意味することが、なんとなくわかったからだ。
「……あの、父は船の見回りなどをやっていたのでしょうか」
 僕達を安置所に案内してくれた、僕とさほど年齢が変わらないように見える青年は、少し驚いた顔をして僕を見つめ、唾を一回飲み込んだ後に姿勢を正した。
「あ、はい。機関長は、夕食後と、ご就寝前に毎日必ず船を一周して、船内だけでなく、海に異常がないかどうかを、確認されていました」
「それはその……父の仕事だったのですか」
「いいえ、巡回の担当者は別におりますが、機関長は自分の目で確認したい、と巡回の者にお謝りになりながらも、いつも一人で船を回っていらっしゃいました」
「裕介、それどういうこと」と母が目を腫らしたまま、訝しげに眉を寄せる。
 僕は無言で母を制し、真新しい三等機関士の徽章を胸につけた青年に再び向き合った。
「それは、いつからのことでしょうか?」
「はいそれは、機関長が弊社に移られてからずっと、そう聞き及んでおります」 
 父が五十三歳にしてこの小さな海運会社に転職したのは、三年前のことだ。それまでは日本を代表する水産会社の巨大な漁獲船に乗っていた。
 海の男達の気晴らしは酒、と相場は決まっている。そして父は、人並みを大分超えて酒が好きだった。
 ある日の海の上、機関長の父を筆頭に機関士たちが、魚との壮絶な戦いを大過なく終えた一日を振り返り、盛大な酒盛りを繰り広げていた。だが、本当の大過は既にその足元に迫っていた。酒盛りの最中に、エンジンオイルが大量に海に放出されていた。そしてそれは父の部下である、機関士の操作ミスによるものだった。
 この事故により会社は甚大な損害を被り、父は責任をとって会社を辞めた。……と言えば聞こえは良いが、事実は――事務系のお偉方とやりあい、引くに引けなくなって仕方なく辞職した――そういうことらしい。そしてその時も父は酒を飲んでいた。
 会社を辞めた父の再就職先は、すぐに見つかった。しかし、給料は半分近くにまで減額した。
 それまでにも、父の酒による失敗を見続けてきた母はあきれ返り、「今度こんなことがあったら、裕介の学費用にとっておいた貯金を切り崩さなきゃならなくなりますよ」と、本気で父を叱責したが、父は少しだけ首をすくめ、それでも、コップ酒を手放そうとはしなかった。
 再就職後も長い航海から帰り、休暇で家にいる時は、懲りずに昼間から酒を飲んでいた。
「酒は……父は酒を飲んでいましたか」
「いいえ、機関長は船の上では、お酒は一滴もお飲みになりませんでした」
 青年はきっぱりと答えた。
 驚愕の表情を浮かべたまま、母の顔が固まった。
「裕介、お父さん……」
『そうじゃ、もう一度見回りをしておかんといけん』
 父はその日、風邪気味で微熱があったらしい。しかしそれでもベッドから這い出てきた父は、エンジンオイルの幻影を見ていたのかも知れない。
 リノリウムの床に足を一歩踏み出したところで、祖父と同じように頭の血管を切らし、そのまま倒れ、あっさりと逝ってしまった。
 いろいろあったけれど、父の死に際は男として立派だった――なんて、軽々に口にしてしまったら、きっとあの世で再会した時に、父に思い切り頭を左右に揺すられるだろう。
「なあに、便所に行こうとしてたんだよ」、と照れながら父は笑うのだろう。
 僕は緑色の父の顔に向かい、ゆっくりと頭を下げた。
 父の遺体は空路、川崎に帰って来た。
 それ以来母は父の仏壇に、水と一緒に毎日欠かさず、酒を供えている。

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