小説『さいごの声』
作者:たれみみ()

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  ◎

 大学時代に親友だった木下が死んだ。
 それを報せてくれたのは、恵子――木下の結婚相手、つまり奥さんだ。
 そして恵子も学生時代、木下や僕と同じ映画鑑賞サークルに所属していた。
「ワンボックスカーとぶつかって……」
 訃報を聞いて集まった大学時代のサークル仲間の前で、恵子は声を詰まらせた。
 ほとんど二年ぶりに見る恵子は、以前より顔も身体も丸みを帯びているように見えた。
 彼女はまだ半ば放心しているようだったが、途切れ途切れに僕達に、木下の最期を語ってくれた。
 木下は会社から帰宅する途中だったらしい。交差点で、木下が運転する軽自動車が右折しようとしたところ、信号無視で突っ込んできた3ナンバーの大きなワンボックスカーと衝突した。軽自動車は弾き飛ばされて横転し、横滑りしながら電柱に激突した。
 それほどの大事故だったのにも関わらず、木下の死に顔は眠っているように、きれいなままだった。
 ハンドルで前胸部を打撲したことで,肋骨と胸骨が骨折し心破裂に繋がった、それが木下の死因と判断された。
「恵子、無理しないで休んでおいたほうがいいよ。明日は朝からいろいろと大変なんだし。……身体にも負担がかかるだろうから」
 昔のサークル仲間の一人、貴枝が恵子に寄り添い肩に手をかける。しかし視線は何故か恵子の腹に……。
――そういうことか。
 僕は自分の鈍感さに自分で呆れ返り、もう一度恵子の腹の膨らみを盗み見た。
 その時だ。
『けいすけか、けんすけにしよう』
 木下の“さいごの声”は、どことなく弾んで聞こえた。
『けいすけか、けんすけにしよう』
 事故死する直前に、木下は、もうすぐ産まれ来る我が子の名前を考えていたのだろうか。
――でも、何故?
 僕は混乱した頭の中で、その二つの名前を反芻した。
 おそらく漢字に当てはめれば“恵すけ”そして“健すけ”になるのだろう。木下の名前は健一だ。
 そして、“すけ”の字はおそらく……。
 木下と恵子は大学を出てから四年後、二人共二十六歳の時に結婚した。
 大学在学中から二人と僕は、サークルの中でも、特に仲が良かった。卒業して、それぞれの進路を歩み出してからも、その関係は途絶えることなく、常に三人で連れ立って遊び、映画を鑑賞し、そして語り合っていた。
 しかし、よくある三角関係はその後、予想よりも早く、よくある結末に辿り着く。
 つまりは、僕以外の二人が結婚を選択し、僕だけが取り残された。
 二人の結婚を僕に報告したのは恵子だ。
「三人一緒にいつづけることが、苦痛になってきたの」
 恵子は涙を浮かべながらそう語った。
 では何故、僕ではなく木下を選んだのか?――僕は最後まで、それを訊くことができなかった。
 プロポーズをしたのが、たまたま木下の方が早かったからなのか? それとも、恵子は選ぶ相手を初めから決めていたのか?
 どちらの答を聞いても、僕がそして恵子もひどく傷つく予感がしていた。
 僕はその夜、木下に電話をした。
「お前とは絶交する」
 暫くの間の後、木下は「そうか、わかった」と短く応えた。「何故?」とも返さず、「ごめん」とも言わなかった木下はきっと、僕の気持ちを十分に察していたのだろう。
『けいすけか、けんすけにしよう』
 三度目の声に思わず顔を上げた僕の視線が、恵子のそれと交差した。恵子が心配そうな表情を浮かべて僕を見つめていた。
「あの、ちょっといいかな」
 恵子の反応を確認することなく、僕は立ち上がり、木下の棺が安置されている和室を出た。
 廊下に佇みながら恵子を待つ。
「どうしたの?」
 恵子が心持ち足を引き摺りながら、廊下に出てきた。
「お腹の赤ちゃんの名前……木下が考えていたんだろ」
「うん……男の子なの。それがわかってから、あの人、自分が名前を考えるって、張り切っちゃって。でも……」
「君は、あいつが考えた名前を、まだ聞いていない」
「……そう。でもどうして?」
「恵すけか健すけ」
「……」
「そう、あいつは……考えていた」――嘘じゃない。
「裕介、健一と話したの?」
「あいつの思いを聞いた」 ――嘘じゃない。
「わかった……ありがとう」
「じゃあ」
 再び和室に戻ろうとした僕を恵子が呼び止めた。
「裕介」
 和室に繋がる扉にかけた僕の手が止まった。
「健介にする、この子の名前」
 僕は思わず振り向き恵子を見つめた。
「あの人の健と、あなたの介。怒らないでね、それがあの人の望みだったんだから」
 くしゃくしゃの顔でたくさんの涙を流しながら、それでも恵子は笑っていた。
「あの人が私にくれた最後の贈り物、この子の名前……届けてくれてありがとう」
 恵子はお腹に手を当て、優しく一言「健介」と呼びかけた。
 その横顔には、途方もない悲しみを受け止め、乗り越え、その上で母になろうとする、強い決意が滲んでいた。

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