小説『さいごの声』
作者:たれみみ()

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  ◎

 救急車のサイレンが鳴り響いていた。交差点の一角に、人溜りができている。
 夜の八時過ぎ。コンビニの袋片手に家路を辿っていた僕の足は、何となくそちらに吸い寄せられていった。
(車と自転車が接触したんだって)
(直進しようとしていた自転車の側面に車が突っ込んだんだよ、俺完璧に見たんだから)
(うそ、マジで?)
(マジもマジ、超ド級のマジよ。でもさ、その自転車も、なんかすげー急いでた感じだった)
(なんで?)
(そんなこと俺が知るかよ。ほらあれ、自転車に乗っていた女の人)
 二十歳過ぎくらいの若いスーツ姿の女性が担架に乗せられ、救急車の中に運び込まれようとしていた。
 その顔には酸素マスクのようなものが被せられ、耳からは……赤黒い血が流れている。
(げ、やばいんじゃねえ、あの人)
(息してねーよ、てか耳血は脳みそいっちゃてるって)
 救急隊員が喧騒に背を向けるように、厳しい表情でトランシーバーを耳にあてている。
 その時だ。
『早くしないと、みあかーさが』
 若い女性の声だった。
 一瞬、群衆の中の誰かが発したのかと思った。
 僕は辺りを見回して、声の主を探した。
『早くしないと、みあかーさが』
 二回目を聞いたときには、全てを理解していた。
 担架の上の女性が既に事切れていることを。そして、僕に届く“さいごの声”には、肉親や友人だけではなく、赤の他人のものまでも含まれることを。
 救急車は女性を乗せ、けたたましいサイレンの音を残して走り去っていった。
 フレームがひん曲がってしまった自転車は撤去され、自動車の運転手はパトカーの中で事情聴取を受けている。
 すると群集の方も急に興味を失くしたのだろう、潮が引くようにあっさりとその場から消えていった。
 そして僕だけが取り残された。
『早くしないと、みあかーさが』
――どういう意味だ? みあかーさ……外人の名前だろうか? 彼女の友人の渾名か? それともお母さんのこと?
 もちろん、このまま疑問に蓋をし、忘れたふりをして、一人暮らしのマンションに帰ることもできる。
 そうしたとしても、誰も僕を咎めはしないだろう。
――だけど……咎められなければそれでいいのか? でも僕に何ができる?
 僕は大きな溜息を一つ吐き出し、買ったばかりのスマートフォンを鞄から出した。
 <みあかーさ>を検索すると、<在宅介護支援センター>が最初に検出された。
――彼女は、こんな時間に介護センターに向っていたのか? さらに検索を進める。
 しかし、周辺に『在宅介護支援センターみあ・かーさ』はなかった。
 再び指で画面をスクロールする。
 気になるサイトを開き、“さいごの声”との繋がりを捜す。
 その作業を何度も繰り返した。そして、一時間が経とうとした時。
 僕の指が止まった。
『ギフト専門店 MIA CASA』 
 その店の住所は、ここから歩いて十分程度。
 自転車なら、もっと早くに到着できる。
 そして、閉店時間は……午後八時となっていた。
 彼女が事故に遭ったのは八時前。
――彼女は、閉店時間が迫るギフトショップに急いで向っていた。おそらく誰かへのプレゼントを買う、または受け取るために。
 そしてそのプレゼントは、どうしても、その相手に、明日渡さなければならないものだった。
 僕は、自分の思考を追いながら、それが単なる推察ではなく、限りなく真実に近いものであることを、何故か確信していた。
 
 玄関扉を開けて出てきたのは、五十年配の温厚そうな男性だった。疲れ切った力のない視線を彷徨わせ、数秒後にやっと門扉の外に立つ僕を確認した。黒いセーターとベージュのチノパンという服装は、たぶん昨晩からずっと着たままなのだろう。白髪混じりの髪の毛は艶なく乾いていた。
「……なにか」
 空ろな瞳で僕を見ながら、男性は痰が絡んだような小さな声を発した。
「お嬢さんのことで、お話したいことがあります」
 散々迷った挙句に僕は、この何の色もない言葉を最初に選んだ。
 男性が息を呑む音が聞こえてきそうだった。しかし男性は、僕の語調から何かを察したのかもしれない。無言で僕に先を促した。
「昨日の夜、お嬢さんが急いでどこに行こうとしていたのか、そして何故急いでいたのか、その理由を僕は知っています」

 前の晩、『ギフト専門店 MIA CASA』を検索した後、僕は警察署に向かった、事故の目撃情報を伝えるという口実で。
 運転手が既に自供を始めており、目撃者も多数いる。事故の瞬間を見ていない僕の話は、当然のことながら警察にとっては何の有益性もなかった。
 しかし、僕は中年の巡査部長との会話の中で、彼女の名前と年齢を知ることが出来た。村越佑香さん二十三歳。いつの日か線香をあげに行きたい、と拝むように頼むと、人のよさそうな警察官は困ったような表情を浮かべて、両親と同居している彼女の住所だけを口頭で伝えてくれた。
 翌朝、開店と同時に『ギフト専門店 MIA CASA』 の扉を叩いた。村越佑香さんの名前を出すと、三十歳ほどの柔らかな笑顔が眩しい小柄な女性が、すぐに反応してくれた。
「昨日、村越様からお電話がありまして、残業で遅くなるけれど、必ず閉店時間までには受け取りに行きますって」そして、女性は心配そうに童顔を少し歪めた。
「閉店時間を過ぎてもお見えにならないので、八時半まではお待ちしていたんです……携帯電話にも何度かお電話したのですが、電源が入っていないか、圏外だったようで」
 携帯電話はおそらく事故の衝撃で壊れたのだろう。
「御代は既に頂いているので、当店としては特に困ることはないのですが……せっかくのギフトですので……村越様、このギフトのことは御家族には内緒にしておきたいと、だからご連絡先も御自身の携帯電話番号しか記入されずに……あの村越様に何か」
 不安に耐え兼ねるように、女性が言葉を止めた。
 僕は、昨晩の彼女の事故のことを簡潔に伝えた。
 童顔の店員さんの大きな瞳が、見る間に涙で一杯になった。
 
「お嬢さんは昨晩、ギフトショップに、これを受け取りに行こうとしていたのです」
 僕は、門扉の上に、童顔の店員さんから預かったベージュの紙袋をかざした。
 村越佑香さんの父親は、僕の顔と、ギフトショップのロゴが入った紙袋の間で視線を泳がせ、やがて肩から大きな息を吐いた。
 玄関扉を閉めて、石畳の上をゆっくりと近づいてくる。
 門扉を開けながら、「どういうことです?」と僕の目を見ずに低い声を発した。
「中を見てください」と僕は紙袋を彼に手渡した。中にはきれいに包装された四角い箱が入っている。
 村越さんが袋の中から四角い箱を取り出した。だが、戸惑うようにただ見つめているだけだ。
「佑香さんが、あなたと奥様の銀婚のお祝いに贈ろうとしていたプレゼントです」
 村越さんが弾かれたように背筋を伸ばした。半開きになった口元が、微かに震えている。
「今日行われる予定だった銀婚式でプレゼントしようと、用意していたそうです。あなた達に見つからないよう、昨日まで、それを買ったギフトショップに預けていたそうです。そしてそれを昨晩……」
 僕の声を遮るように、村越さんが大きな音を立てて、包装紙を引き裂き、破る。
 震える指先で箱の蓋を開けた。
「これは……」
「マグカップです。あなたと、奥様のための」
 ペアのマグカップは秋の陽光を浴びて、柔らかく優しい乳白色に輝いていた。
「佑香さん、それを選ぶのに、二時間かけたそうです。いろいろと迷いながら、店員さんにも相談しながら」
「…………」
「翡翠の粉末が塗りこまれているそうです」
「翡翠」
「あなたも奥様も最近血圧が高めだと……翡翠には高血圧を改善する効果も……」
――しゃべり過ぎだ。わかっている。でも僕は、佑香さんがこのマグカップに込めた両親への思いの全てを、どうしても伝えておきたかった。
「ありがとう」
「…………」
「ありがとうございました」
 村越さんは、マグカップの入った箱を両腕の中に抱え、僕に向かって深く、長く、頭を垂れた。しかし、その顔からは一切の表情が消えていた。
 踵を返すと、再びゆっくりと玄関扉に向かい、やがて静かに家の中に消えていった。
 
 僕は呆然と村越さんを見送りながら、今更ながら自分のしたことの意味を思っていた。
 佑香さんの両親に対して、もしかしたら僕は、とんでもなく残酷な仕打ちをしてしまったのかもしれない。
 自分たちへのプレゼントを受け取りに行ったがために、娘は事故に遭いそして死んでしまった。彼らが知らずにすんだかもしれないそんな情報を、一方的に告げる資格も権利も僕にはなかったはずだ。
――僕はいったい何をしたかったのだろう……。
 事故死した娘の想いを家族に届ける――それは本当に彼らのためだったのか? 他人に感謝される、本当はそれ以上のことを求めていたのではないか? 
 “自分でも他人の役に立つことができる”そう確信したいがために、彼らの想いを利用しただけじゃないのか……。  

 僕は力なくうなだれたまま村越宅を後にした。
 秋晴れの土曜日。駅前ではカップルや家族連れが賑やかにランチの相談をしている。
 急に空腹を覚えた。そういえば昨晩も今朝も食事らしい食事をとっていない。
 こんな時でも空腹を我慢できない自分を哂いながら、僕の目は適当な店を探していた。
 比較的空いているラーメン屋を見つけ、足を踏み出したその時、強い力で右肩が掴まれた。
 驚いて振り返ると、村越さんが両膝に手をつき荒い呼吸をしながら、僕を見上げていた。
「あ、あの後、すぐに、あ、あなたの後を追ったのですが、なかなか見つからなくて」
「……僕のことを探していらしたのですか?」
 村越さんは返事をする代わりに、大きく唾を飲み込み、小さな頷きを繰り返した。
「……どうして?」
「ひ、昼ごはん、一緒に食べませんか」
「昼ごはん?」
「ええ、まだでしょう。私におごらせて下さい」
「あ……いえ、とんでもない」
「もう少し、もう少しだけ話を聞かせてくれませんか。あの子の……あの子の話を」
 お父さんは赤い目で、縋るように僕を見つめていた。
「あなたからなら……聞くことができる、そんな気がするんです」
 そして、僕の右手を両手で強く握った。
「あの子の最期のことを」



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