第1章『百代編・一子編』
サブエピソード9「ワン子とビッグ・マム」
夕日が登り始め、空が茜色に染まる下校の時間。
生徒達が帰宅し、校門を出てそれぞれの家へと帰っていく。
その中には百代の姿もあった。一人で帰り歩く百代の後ろ姿は、どこか寂しげだった。
そんな百代を、学園の屋上から見下ろしている人物が一人。
臨時講師―――ビッグ・マムだった。
「さて、どうしたもんかね」
独り言のように、ビッグ・マムは呟く。
百代と対決してからもう数日が経つ。あの日以来、百代の様子を観察していたビッグ・マムだったが、依然と百代に変化はなく、無気力というより諦めに近いものを感じる。
やはり、答えはまだ見つけられていないようだった。
「…………」
腕を組み、目を閉じて考えに耽る。このまま百代が何も変わらなければそれまで……と、鉄心には宣告している。
手助けをするつもりはない。これは百代自身が乗り越えなければ意味がないのだから。
(もう少し、様子を見るか)
変わって欲しいと思う気持ちは、ビッグ・マムも同じ思いだった。
彼女には、気持ちの整理をする時間が必要なのかもしれない。ビッグ・マムは大きく空気を吸い込み、静かに息を吐くのだった。
「――――そこにいるのはわかっている」
屋上の入り口に背を向けたまま、ビッグ・マムは声を上げる。まるで、後ろに誰かいると知っているかのように。
「隠れているつもりだろうが、アタシにはバレバレだよ。さっさと出てきな……川神一子」
「………」
屋上の扉がゆっくりと開く。現れたのは気まずそうな表情を浮かべたワン子だった。
ワン子はビッグ・マムに近づくと、早速話を切り出す。
「ビッグ・マム講師。相談があります」
ワン子の目は真剣であった。ビッグ・マムはすぐに、百代の事についてであると理解する。
「川神百代のことだろう?」
振り返る事なく答えるビッグ・マム。ワン子は頷いて、今の百代の様子について話し始めた。
「はい。講師と決闘してから、ずっとあの調子なんです。なんていうか、いつも何かを求めているみたいで……だから、アタシに何かできる事があれば―――」
「ほう。それで、アタシのところに相談に来たってわけかい」
ようやくビッグ・マムはワン子の方へと振り返る。だがその表情は厳しく、ワン子を射抜くように視線を向ける。
「ダメだ。手を出す事は許さない」
「え……ど、どうして!?」
「これはあの子の問題だ。あの子が一人で乗り越えなければ、成長にならないからだよ」
ビッグ・マムの厳しい言葉に、そんな……と小さく声を漏らすワン子。
しかし、自分の大切な姉であり、目標である百代のためだ……ここで引き下がる訳にはいかない。ワン子はビッグ・マムに食い下がった。
「アタシは、それでもお姉さまの力になりたい」
「お前の姉を思う気持ちは分かる。だがね、そっとしておくのも一つの思いやりだよ。分かるね?」
時にはそっと見守る事も大切だとワン子に諭した。しかし、ワン子は納得のいかないような表情でビッグ・マムを見つめている。
「ふむ………」
ビッグ・マムは腕を組み、ワン子をしばらく凝視する。すると突然右手を伸ばし、ワン子の右胸を鷲掴みにした。
「ひゃうっ!?」
いきなり胸を揉まれ、思わず身体をビクッと震わせるワン子。ビッグ・マムは、じっくりと揉みほぐしてはうんうんと頷いて、何かを感じ取っているようだった。
散々揉み倒し、満足げに頷いたビッグ・マムはようやく手を離す。ワン子は突然の出来事にあわわわわと声を上げ、ぶるぶると胸を隠すようにして震えている。
「なるほどねぇ……そういうことか」
ワン子の胸を触った手を見ながら、ビッグ・マムはワン子の中にある本質を見抜いていた。
ビッグ・マムの異名である、“地獄の乳揉み師”……そう呼ばれるだけあって、女性の本質が分かるその腕は本物である。
「お前は本当に姉思いのいい妹だ、感心するよ」
ビッグ・マムはワン子を賞賛した。しかし次の言葉に、ワン子は驚愕する事になる。
「だが、あの子を心配しているその裏で、自分の目標が失われる事を恐れている………違うかい?」
「―――――!」
薄々と感じていた本心を……認めたくなかった自分の本心を見抜かれてしまい、ワン子は声も出せなかった。
百代は自分の目標である。ここで百代が答えを見つけられないまま“終わって”しまえば、自分の目指すべき目標が失われる……それがワン子にとって、何よりも恐怖だった。
「あ、アタシは……」
何も言い返せず、拳を握りしめ、地面に視線を落とすワン子。
その瞳には、本心に気付かされてしまった恐怖と悔しさで震え、今にも泣き出してしまいそうだった。
ビッグ・マムはそんなワン子の様子に同情する事なく、さらに残酷な一言を口にする。
「川神一子。はっきりと言わせてもらうよ、お前には武術の才能は……殆ど皆無だ」
初めてワン子達と手を合わせたあの時に、ビッグ・マムは感じていた。
彼女は努力の天才ではあるが、百代や鉄心のような並外れた武術の才能は殆どない。
それを諭す事で、百代に対する思いがどれ程のものか、見極めようとしていた。ビッグ・マムはさらに続ける。
「お前が目標にしているものは、水に写った月を掴み取るようなものだ。少なくとも、アタシから見ればお前の今持つ才能が開花する可能性は、ほぼゼロに等しい」
ワン子が目指す目標―――いくら努力をしても、届かない領域がある。百代に執着して助けになったとしても、いずれはワン子が傷つくだけである。
「それでもお前は……お前の目標である川神百代の力になると言い切れるのかい?」
ビッグ・マムは問う。ワン子が失う事を恐れる、川神百代という目標を。届かないと分かっていてもなお力になるか……その覚悟を。
だがワン子に迷いはない。たとえ力になれなかったとしても、その目標が叶わぬ夢だとしても。その結果、自分が傷つく事になろうとも。
ワン子の答えは、一つだった。
「アタシはそれでも……お姉さまを助けてあげたい!」
ワン子は再びビッグ・マムを見る。真剣で、覚悟のあるその眼差しは本物であった。
(ふっ……この子は)
ビッグ・マムは心の中で微笑む。ワン子の気持ちを揺さぶったつもりだったが、最初から答えは決まっていたらしい。それなら、わざわざ自分の所へ来る必要はないだろうに。
もしかしたら、ワン子も百代と同じように、確かな“答え”が欲しかったのかもしれない。
「そうか。お前がそこまで言うなら、好きなようにするといい。アタシは止めないよ」
背を向け、さっさと百代の所へ行きなとビッグ・マム。その言葉に、ワン子は思わず涙した。
「はい……ありがとうございました!」
流した涙を拭い去り、深く礼をすると、ワン子は屋上の扉に向かって走り出した。その様子を、ビッグ・マムはただ静かに見送っている。
(川神百代……いい義妹を持ったじゃないか)
ここまで思ってくれる人間がいる……幸せ者だとビッグ・マムは思った。きっと彼女なら百代を変えてくれるきっかけになるかもしれない。
(しかし、妙だねぇ……)
本人には言わなかったが、ワン子の胸を揉んだ時、ビッグ・マムはほんの僅かに妙な違和感を感じ取っていた。
ワン子の中に表現できないような、ただならぬ“何か”を。