小説『私は障害者である』
作者:佐藤賢二(ABストア)

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11. 鉄人と呼ばれて、私は生きていく!

私の北療への通園はその後も続いた。
とにかく、毎日、私はお母さんの運転する車に乗って通い続けた。
友達も出来た。
保育の先生も、看護婦さんも、皆良い人だった。
お母さんも、毎日顔を突き合わせた母親同士で仲良くなったようだ。
病院内の売店のおばちゃんとも仲良くなって、売店前にあるマットや長椅子は母達の社交場になっていた。
斜視が酷くいので目の手術で入院もした。
でも私は風邪をひく事も無くほぼ毎日休む事無く北療に通い続けた。
友達の中には、風邪をひくだけで肺炎になって入院したり、母子共々に疲れてよく休んじゃう子もいた。
とにかく私は強いのだ。
ついに小学校に入るまでの間、その目の手術の時以外は皆勤賞だったのは、私の自慢でもあった。
それは、きっとお母さんにとっても嬉しい事なんだろうけれど、その分お母さんも毎日通園に付き合った訳で、それはそれで大変だったんだろうなと思う。
私は只お母さんに連れられて園に行って、運動したり、音楽したり、お絵かきしたり、とにかく楽しかったし、家に帰ればお昼寝して、ご飯もお母さんに食べさせてもらって、お風呂も入れてもらって、そして後は誰よりも早く寝るだけ。
でもお母さんは、家の中で誰よりも早く起きて、皆が寝ている内に洗濯して、お掃除して、私のご飯の介助をして、お姉さんを保育園に連れて行き、昼間は私の付き添いで外出し、帰ってきたら洗濯ものを取り込んで、私におやつを食べさせて、あっ、お姉さんの保育園からのお迎えもして、夕ご飯を作って私には食べさせて、お姉さんと3人でお風呂に入って、私を寝かしつけて、時には私と一緒に寝ちゃったりもするけれど、アイロンかけたりいろいろ片付けたりして、、、、又次の日が巡ってきて、それが毎日続いていく。
親父はと言うと、男は外で金を稼いで来るんだとか言って、朝こそ一緒に起きてくることはあっても、夜はいつも遅くて殆んど私達と交流が無いのだ。
たまの休日には、車に皆で乗って近くのショッピングセンターに行ったり、公園に行ったりしてくれた。あれで、親父もそこそこ気にしているようで、月に何度かは私と一緒にお風呂にも入ってくれる。まあ、お母さんの苦労に比べれば大した事無いと思うけれど、、、
小学校は練馬区にある都立の養護学校に入った。
区立の学校もあったけれど、それだと結局高校の時に養護学校に編入されるので、その時にドタバッタしたり他所者にならないようにとの両親の配慮だった。
お姉さんは地元の区立の小学校に入学したけれど、よく私達のような障害児でも地元の普通の小学校に入れたがる親がいる。でも、学校側も受け入れの体制を取るのは大変で、車椅子用のトイレやら、段差の解消、教室が2階以上の場合の階段をどう昇るのかとか、給食の介助とかトイレ等沢山課題があって、何よりも区として障害児の為に介助者を配置するのだけれど、とても経費的にも大変な事になる。
健常な同級生にとっては、生活弱者としての障害児との共同生活が情操教育に役立つと言うのだけれど、それって結局同級生には結構負担になるだろうし、団体活動で制約も増えるだろうと思う。その考えって、私達が健常な生徒の情操教育の教材って事になる、、、
それよりも養護学校には、看護師さんもいて、セラピストによる療法を受けられ、何より障害を持つ私達の事を真摯に考えケアしてくれる先生がいるのだ。

私は障害児なんだ。その事実に向き合って堂々と生きるんだ。ってあのお気軽親父が私について言う。それは親としての自分自身に言い聞かせているのだ。
それには、健常者と障害者ってどこで線引きしているんだろうとか、何を持って障害者って言うんだろうという基本的な疑問が親父にはあるようで、その自答自問の繰り返しが、或いは私と両親との共闘する心のテーマなのかも知れない。

確かに私は両足が上手く動かせないから立てないし歩けない。両手も健常な人に比べれば動きが鈍く、変に力が入って思うように動かない。だからご飯を自分で食べれないし、歯も磨けない。勿論ひとりではエンピツも持てはしない。
上手く喋る事も出来ない。と言うより健常な人とのコミュニケーションが上手く出来ないのだ。
私としては、私なりに動いているのだけれど、、、
私流に声も出しているし、出来る限りに体だって動かしているんだ。

人間は歩けないとダメですか?
人間は日本語の標準語を話せないとダメですが?
人間は何をすれば人間なんでしょうか?
健常にすくすくと親の考えていたように育っていたのが、10代半ば当たりで突然と引き籠もったり、ウツになって他人と話せなくなったりした人は障害者では無いのですか?
学校の運動会での徒競争でいつも断トツのビリの子や、長距離走で完走出来ない子や、
しいては、全然泳げない子や、学校の成績がいつもオール1の子はどうですか?
車を運転していて交通事故で脊髄損傷して下半身不随になることもあるし、何かの事故や病気で四肢を欠損することだってあるでしょう。
家庭内で暴力をふるって親子関係が断絶したり、家出して行方不明になったり、反社会的な犯罪に手を染めたり、、、、
覚せい剤などの薬物汚染になり再犯を繰り返す奴らもどうだろう、、、
それぞれが障害と言えるならば、障害者という線引きって凄く難しいことに思える。
だから、生まれた時からの障害者と呼ばれる私達のような者だって、障害者だから可愛そうだとか、気の毒だとか言われたくないんだ。
母親だって、やる事多くて大変だけれど、だからって不幸では絶対に無いのだ。
健常と呼ばれる子供も見栄と見てくれを気にして、上手に育てたつもりでいて、暇な時間にファミレスあたりでそんな母親達が集まって虚勢の張り合いのお茶会をして、漫然とテレビを見てすごしているような主婦よりも、ずっと幸せなんだ。
親子、家族でいつも一緒にいて、子供の為に何でもする。それを素直に応えて母親を頼ってくる。そんな家族の絆は何処の他の家族にも負けないし、その生活は大変でも実に充実しているのだ。
父親だって、子供からウザいなんて言われる事も無く、家族と一緒に過ごすことが多くて、障害者の私のお陰で家族皆の距離がとても近いものになっているんだ。
、、、、って、これ、私って言うより親父の独り言である。
まあ、私としても納得なんだけれど、それなら親父はもっと稼いでこいや!ってお母さんとお姉さん共々親父に叱咤するのだ。

私はこの学校に高校まで12年間お世話になった。小・中・高一貫教育なのだ。
その間、多くの先生にもお世話になったし、友達も12年間ずっと一緒の子もいる。
卒業式を迎えて、私は社会に出る。と言っても未だ未だ自立は出来ないので、これからもお母さんや介護の人の手を借りて生活していくのだ。
でも、きっとこの学校の12年間はけっして忘れないだろうと思う。
卒業のこの年、校庭には自身13回目の桜の花を見た。
ああ、私って幸せなんだって思った。
卒業式でお母さん達は泣いていた。先生も泣いていた。
私はそれを見て楽しかったけれど、けっしてそうは言わずに静かにしていた。
やがて、私は20歳になり成人する。
これまで頑張ってきたし、これからも頑張って生きるんだ。

そう、私は幸福んなんだろうな。
お母さんは本当に私と一緒にいてくれる。すこし不便なことを手伝ってくれるのは感謝だ。
お陰でいろいろな所に行けるし、ご飯も食べられるし、お風呂に入れる。トイレにも連れてってくれる。本当に有難う。
お姉さんは私にお母さんを取られて寂しい思いをいつもしていただろう。姉妹といっても他の家族のように、喧嘩したり一緒にショッピングしたりとか出来なくてゴメンね、、、
でもお姉さんがいたお陰で、家族は凄く明るかったし、クリスマスとか誕生日とかイベントを盛り上げてくれて凄く楽しかった。親父の相手もしてくれて親父もいつも嬉しがっていたよ。
そしてその親父。
お気軽って言ってきたけれど、親父は親父で悩み、苦しみ、私達の為に汗を掻いて頑張ってくれたのは勿論知っている。
あれで、ちゃんと考えているんだろう。感謝、感謝。
学校でも、沢山の先生やスタッフの人々が、私に関ってくれた。
皆良い人ばっかりだった。
1歳のときから北療で今も私を診てくれている先生がいる。良い人だ。
最近、介護制度で家にヘルパーさんが来てくれるようになった。
皆、良い人だ。
私は本当に人に恵まれていると思う。

私は障害者である。
いや正確には、私は障害者と呼ばれている。
でも私は不幸では無い。少し不便なだけだ。
そして私を介護してくれるお母さんやお姉さん、親父に感謝である。
多くの人々に感謝である。
私は幸せなのだ。

 
  〜終わり〜




【追記】
空から私達を見守る小さな目
高く飛ぶ 鳥達の囁く声がする。
海深く私達を誘う透明な手
群青に染まる女神の心を感じる

爽やかな風が窓辺を通り過ぎると
あっ、私は生きているって思う。
五感が研ぎ澄まされて、
風が運んでくる、ハーブの香りや、
子供たちの笑い声、
陽に焼けた土の匂いに、
休む暮らしの重なりの鼓動が、
混沌として交り合い、溶け込んで、
私も同化して、、、
自然の理りを感じることができる。

欠けることを嘆くで無く、
抜きん出るを良しとせず、
私は私であり、
私はこの世界の一部として生きているのを
幸せと呼ぶことを知っている。

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