小説『私は障害者である』
作者:佐藤賢二(ABストア)

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10. 毎日お母さんを一人占め

都立北療育医療センター、通称「北療」との付き合いが始まった。
発達の診察、リハビリの運動訓練と、通所の療育活動が、平日はほぼ毎日行われる。
私が毎日通うということは、お母さんが毎日通うと言うことでもある。
我が家はこの二人の北療通いを中心に生活サイクルが回ることになった。
自家用車も親父の好みの大きな1ボックスカーから、お母さんが運転しやすいコンパクトカーに代わった。
直ぐにお姉さんは近くの保育園に通い始め、埼玉県の実家のお祖母ちゃんが頻繁に滞在する事になった。
私とお母さんは当初はバギーに私が乗って電車で通っていたけれど、やがてお母さんが車の運転に慣れてきて、また私自身が大きくなって重くなり、何かと荷物もかさむようになったので、買い換えたコンパクトカーをフル回転するようになっていった。
北療での多くの時間は、保育園のような感じの園に、様々な肢体不自由児が集まってきていて、保育全般にPTやOT、STといった専門の療法士が付いてリハビリをおこなうのだ。
あっ、それに北療の中だからすぐ近くに医者は沢山いるのは当たり前だけれど、保育の部屋の中にも常に看護婦さんがいてくれた。
保育は、音楽あり、体操あり、お絵かきあり、図工あり、本読みありで、お昼ごはんも介助で食べさせてくれるし、お昼寝付きの豪華な時間を過ごすのだ。
季節行事もあって、運動会や文化祭、クリスマス会などもやってくれて、とにかく私的には楽しくて、時の過ぎるのを忘れるほどだった。
保育の先生は、例えば食事で、私は逆嚥下がひどく上手く食べ物がのみこめなかったけれど、STの先生と一緒になって根気よく付き合ってくれて、やがては克服出来て軟食ならば普通に食べられるようになった。
感謝!感謝だ。
また、何時も私の体に触れて、ストレッチやマッサージなどを繰り返しやってくれて、とかく体の硬くなるところを頑張ってくれていた。これも感謝である。
音楽の授業は特に楽しかった。残念ながら回りの人にはなかなか私の美声が聞き取れないのかもしれないけれど、確実に私は先生の弾いてくれるピアノの音に合わせて歌っていたのだ。
その後音楽が好きになったのは、この頃の音楽の授業のお陰だと思う。
医者の先生だって、最初に診てくれた院長先生は内科で私を総合的に診てくれていた。
他にも発達は整形外科の先生がいて、眼科の先生がいた。親父は盛んにこの眼科の女医さんが色っぽくて素敵な先生だって力説したけれど、私にとっては美しさよりも優しいかが大事な要素なんだけれど、何とも親父はお目出度くお気軽なんだ。
この眼科の先生はサバサバして最初はおっかないかなと思ったけれど、何度か診てくれていくにつれて、実は心の温かいやさしさが伝わってくる素敵なヒトだと思った。ああ〜、私もこんな感じの大人のいい女になりたいなあと思ったものだ。
朝から夕方までこの通所をずっと繰り返すことになったけれど、私は一回も嫌だと思ったこのは無い。
ましてや、私は障害者としては驚異的に元気だった。
風邪は殆んど引かないし、何でも食べられて、その量も大人並みだったし下痢をすることも無かった。とにかく基礎体力は健常な子供以上のものを持っていたようだ。
遂に私は小学校に入るまでのこの北療の通所は皆勤賞を貫いたのだ。
お姉さんも保育園はほぼ皆勤だったから、私達双子は最強だって両親はご満悦だった。
まあ、親父がはしゃいで喜ぶのは良いけれど、私的にはそれでもけっこう悩みもあって、リハビリ運動を繰り返して頑張っていても、なかなか歩くことは出来なかったり、手で物を持つのも思い通りに手のひらが開かないから苦労するのだ。先生や両親が私がやりたくも無い時に無理に運動やストレッチをやらせようとする時は、目一杯泣いてやるんだ。
ちゃんと自己主張しないと、わかって貰えないし、大人ってけっこう癖になるからしっかり教えないとね、、、
でも、先生達は時々私が粗相をしても、テキパキとおしめを交換してくれるし、
皆本当に良い人達だ。

一日のほとんどを私はお母さんと過ごす。
つまり、お母さんは時間のほとんどを私と共にいるのだ。
通所時は勿論帰り道での買物もそうだし、家に帰っても、お風呂も一緒だしトイレも付き合ってくれる。けっこう疲れるみたいで私の横でよく一緒に横になり寝ていることがある。
苦労をかけます、、、有難う、、、

お母さんが私と一緒にいる事が多いと言う事は、実はお姉さんはお母さんと一緒の事は少ないと言う事になる。
実際にお姉さんがお母さんと一緒の時は、殆んど私も一緒なのだ。
そして、お姉さんはおねえさんと言う事で、私の面倒も見てくれるし、
何よりも自分の事は極力自分でやらなくてはならないのだ。
1歳半で、お姉さんは自分一人でお風呂に入り、シャワーでシャンプーもしていた。
3歳の時には、近くのお祖父ちゃんの家に歩いて行った事もあった。
6歳の時には、電車を何度も乗り換えて、一人で埼玉県のお母さんの実家まで行った事もある。
でも、時々一人でポツンとリビングの中で座って、私のケアをしているお母さんを恨めしい顔で観ていた事もあったのを私は知っている。
かなり悪い事をしてるなあとも思うのだが、私は残念ながら体の動きが悪くて、自分だけでは自由に動けない。お母さんの力が必要なのだ。
平日だと親父が仕事に出て夜遅くまで帰ってこないから、結局私とお母さんがくっついている分お姉さんは一人ぼっちになちゃうんだ。それを心配して4人のお祖父ちゃん・お祖母ちゃんが時間を見つけてはお姉さんと遊んでくれていた。

親父も、仕事が忙しいとか言って家にいるのは夜寝るだけって感じが多いし、寝るのも一人で寝ていて私達とは別室なのだ。
それも私が原因で、私は寝ている時にほんの小さな物音でも起きてしまう。そして一度起きるとなかなか又寝付くのに時間が掛かる。それはその間私をいやすお母さんも起こす事になる。
だから、夜遅く帰り、熟睡を妨げる私の夜鳴きは敬遠したいので、結局別の部屋に親父だけ寝る事になったのだ。
その意味で、きっと夫婦の会話が他の一緒の部屋で寝ている夫婦より少ないだろうなと思う。

とにかく、私はこうやってお母さんを一人占めしていたのだ。
個人的にはもの凄く幸せなんだけれど、、、
でもその嫉妬の視線を撥ね退けて、逞しく生きていくんだと、私は決めている。

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