小説『私は障害者である』
作者:佐藤賢二(ABストア)

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8. 私はクリスマスに間にあうように退院する。
 
12月になって、お母さんが私のところに通いはじめ、暖かいおっぱいを飲めるようになったのは、自分としては大変に良い事だった。
その頃、既にお姉さんは荻窪の病院を無事退院しており、私を除く親父、お母さん、お姉さんは自分の家で一緒に過ごせるようになっていた。
私だけはひとりぼっちだ、、、
でもお母さんは毎日私に授乳に来てくれる。その分親父はたまに来る感じになっていた。
そもそも親父は別に役にたってはいなかったから、まあたまたま来てくれれば良いのだ。
お母さんは私の哺乳瓶である。
朝や夜は袋に搾乳したお母さんの母乳を哺乳瓶でいただく。
正に、お昼にお母さんが来た時だけ生乳なのだ。
味がどうのこうので無く、何となく安心出来て、暖かさも丁度良く、、やはりお母さんのおっぱいは良いのだ。
でもひとしきり授乳やらで時が過ぎると、お母さんは必ず帰っていってしまうのだ。
強がりばかり言ってもいられない。
寂しいものは寂しいのだ。
お母さんが居なくなると、再び大部屋の小さなベットに寝かされる。
その頃になると体重も多少増えて来て、少し自分の体を動かす事も出来ていた、、、、と思う。
とにかく未熟児として、今は体重アップを目標にして頑張っている訳だ。
って、目標にしているのは病院の先生であり、看護婦さんが注意深く観察しているのだ。
私自身は見られているだけ、、、観察されているだけだ。
そんな日が何日か過ぎて、私の席順も?.79になっていた。
最近、周りを見回す余裕も出来た。
成程いろいろな奴らがいるものだ。
見た目には何処が悪いの?って感じの赤ん坊もいれば、
明らかに体の一部が欠損していたり、水頭症やら無頭症の子もいる。
大きなやつもいて、ベットの上でもう結構自由に動いているのもいる。
そして、大部屋の通路をよく走ったり、看護婦さんと動き回っている男の子も見受けられる。
彼はもう2・3歳位で、看護婦さんとも話をしているし、時々絵本みたいな本を読んでもらっていた。
いいなあ、、、私も早く自由に動きたいなあとその時は思ったものだ。
しかし、彼はこの無菌状態の隔離された未熟児室の中で自由なのである。
つまり、決して外の社会には出る事が無いのだ。
免疫不全。バイ菌に対する抗体が体の中に全く出来ないと言う。
従って、毎日私が楽しみにしているお母さんのおっぱいも、彼はもらった事が無い。
ましてや、搾乳した母乳さえも飲んではいけないようだった。
今は見た目普通の食事をしている。おそらくそれも全て火を通して滅菌された食物なのだろう。
結構、自分だけが大変だったんだぞって思っていたけれど、皆もいろいろ訳ありで苦労しているんだなあなんて、親父譲りのお気軽な神経を反省しきりになったのだ。
ある日、その少年は突然にこの未熟児室からいなくなった。
彼の看護婦さんを呼ぶ声も、室内を走りまわる足音も無くなった。
担当の看護婦さんの悲しそうな泣き顔が、なにやら物語っていた。
この80数人収容の部屋では、毎日のように新たに入院してくる赤ん坊もいれば、
無事だか玉突き的なのか知らないけれど退院していく子もいる。
そして彼のように悲しみとともに、俗世を見ずに逝ってしまうものもいるのだ。
折角、苦労して生まれて来て、様々な病気やら障害と闘って頑張ってきたのに、少しやるせない気分になる。
いや、それは私自身でもそうなのだ。
何時か私も突然のようにこの世から退場するかも知れない。
それは悲しい事なのだろう、、、、いや、私は勿体ない事だと思っている。
折角命を断つ事無く生き長らえて、先生も看護婦さんもお母さんも一緒に頑張っているんだもの、簡単に逝ったら勿体ないんだ。
ここはちゃんと退院して、苦労をかけた人に報いて頑張って生きていかなければと思うのだ。
私はその意味では何やら順調に回復しているようだ。
ようするに、私は生まれてきた時に脳溢血で倒れたようなもので、生まれたときからリハビリ生活が始まったようなものなのだ。
かなり重症に見える老人が、リハビリを頑張って、やがて再び自立して歩けるよになる事はよくある事だ。
私なんて、まだまだこれからの人生さ。
まだ、何をやりたいとか考えた事も無いけれど、シャバの人達はいろいろな事をやっているって聞いた。
楽しい事。
悲しい事。
素敵な事。、
つまらない事。
綺麗な事。
汚い事。
何でも来い!!
私は生まれた瞬間に大概の凄い事はやったようなもので、何でも楽しんでやるって感じなんだ。
絶対に幸せになるぞ。
お母さんと、お姉さんと、ついでに親父も入れてあげる、私の家族。
お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも入れてあげる。
ご近所の人も、一生で話をする数千人の人とも、私は上手くやっていくんだ。
皆で幸せだって叫べるのって素敵だなあと思う。
なんか、小さなベットの上ながら、興奮して来たぞ。
力がみなぎっているのが判る、、、、世の中が私を待っている、、、ってか。

12月23日、私はこの未熟児室から出た。
日赤の病院を退院して、我が家に帰った。
あの日、11月2日に生まれた荻窪の病院から乗った救急車の軌跡を逆に辿るように、
親父の運転する車は走っていった。
街道の並木も殆んど紅葉を残すことなく、冬の気配の深い街の空気を感じることが出来る。
外は正にクリスマスムード全開なのだ。
何となく人生のレースに間に合ったような気分がしたのは、何か不思議な気分でもあった。

その数時間前、親父は、私の退院に際して、またまた主治医の先生と、いつもの狭い無機質な部屋に通されていた。
「お子さんは本当によく頑張りました。
正直入院の時は予断が許さなかったですが、彼女の生きる力と言いますか、生命力の凄さに感服しました。そしてそのお陰で、予想以上に順調に進んだと思います。
私のこれまでの経験での感ですと、娘さんは重篤な危機は脱したんでは無いかと思います。
ただそれでも未だ未だ重度な障害が残る場合もありますし、今後新たに障害を抱えることも考えられますから、注意深く見守ってあげてください。」
と、何となくお褒めの言葉、合格点をもらったような気分に親父はなったのだ。
深くお礼の言葉を述べて、丁寧にお辞儀をして退室した。
でも、先生の話は少し違ったのだ。
私は重度な障害を抱えていたのだ。
しかし、それを家族も回りの人々も知る事になるのは暫く後のことになる。
取りあえず私は退院したのだ。
クリスマスに間に合うように、紅白歌合戦を見る為に、私は我が家に合流した。
いつも姉の隣に並べて寝かされた。
体重3500g、まるで生まれたばかりの赤ん坊だ。
そして、私の中に潜む試練に気づくものは誰もおらずに、幸せな家庭の生活がスタートする。

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