小説『鸚鵡貝は裏切らない【完結】』
作者:魚庵(ととあん)(・胡・晴・日・和・)

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 勢いに任せて立ち上がると、今までしこたま飲んだビールが胃袋でタプンと揺らぎ、腹から胸まで熱くたぎ

るモノが込み上げる。酔ったんじゃなくて。

「……やっと、言わせたわ……やっと聞けたわ!そのセリフ!!」

 立って向かい合えば、ほんの4センチ程度しか背丈の変わらないのぶと目の高さが合う。

 胸まで込み上げたモノが、今度は眼球の奥までも熱くする。決して酔っているのではなく。

「な、何だよ急に?俺が何言ったよ!?」

「言ったわ!『ありがとう』よ!!やっと言わせた!」

「何だよそれ!?まるで俺が今まで礼のひとつも言えない礼儀知らずみたいじゃねえかよ!?何度も言ってるだろ

が!」

「言って貰ったことなんてないわ!いつだって『ごめん』だの『悪いな』だの言って、悪い事してたのはこっ

ちなのに……」

 ああいやだ。また……また鱗が落ちてきた……こんな世にも珍しい事をのぶが言い出すから……

「……何泣いてんだよ」

「泣いてるわけないでしょーが!これは鱗よ!!バカじゃないの!?」

「じゃ、そんなワケわかんないこと言うな!俺が泣かしてるみたいじゃないか!」

「うあーん!だめえ!ケンカしちゃあ」

 立ち上がって罵り合いをしていると、ヒロが泣きながら間に割って入る。

「パパとナナはすぐにケンカするんだから!ナナはこれでも女のコなんだから、だいじにしなきゃいけないん

だよ!」

 のぶそっくりなくりくりした瞳がうるうると抗議する。

「……誰が言ってた、それ?」

「アンたんとサオたん」

「……綾とミサオか……ったく、俺の周りには七恵の味方しかいねえ!」

 綾のことは周りが『リョウ』やら『あーちゃん』やら『あや先輩』やら『りょう兄』やら呼ぶから、ヒロが

覚えきれず『兄[あん]ちゃん』とひっくるめられ、ミサオちゃんはマ行の発音が困難で省略されたのだが……

『サオ付き』だからという下品な意味合いも込めて定着させられた事まではヒロが知る由もない。ただ、相変

わらず二人は傍に居て、私たちを支えてくれている。余計な教育にも余念なく。

 のぶと私はヒロを挟んでしゃがみこんだ。

「ごめんごめん、ケンカじゃないよ」

「悪かったよ、怒鳴り散らしてな」

 私たちが謝るとヒロはツンと上を向いて言った。

「ごめんじゃないよ!」

 ……なんと!たった五年しか生きてない子供にもわかることじゃないか!

 チラリとのぶと顔を見合わせてから、同時にヒロの両頬にチュウしてやる。

「ありがとう!」チュッ! ヒロはまたキャーキャー照れながらはしゃぎ回る。だからコレは誰の血だって

の!

 頭の上に置かれたのぶの手がぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。

「ありがとう、七恵」

 うん。ずっと聞きたかった。ずっと言わせたかった。

「ありがとう、のぶ」

 ずっと言いたかった。それが私の全部の答え。

「早く海乃んとこ行って来い!いい加減ホテル行くよ」

 勢いよく蹴り倒すと、のぶは笑いながら転がるように駆け出す。

 すかさず後を追いかけたヒロを呼び止める。まあ待て。お前がまだ誰の腹にも居ない頃の銀幕を、ちょっと

眺めさせて貰おうよ。

 ヒロの抱きしめているオウム貝から、仕込まれたシンコとやらをペットボトルに移した。ああ、まだ元気

だ……流石は海乃に選ばれた命だ。しぶとい!

 波打ち際では、のぶと海乃がじゃれている。ちゃんとプロポーズのやり直ししてんのかな?……あ。海乃、

潰されてる。何だか毎日見ている光景と変わらないな。

「パパとママはしあわせね〜」

 呟くヒロを背中からギュウっと抱きしめると、またキャーキャーと喜ぶ。

「ナナも幸せ」

「ヒロもしあわせ」

 腕の中でくるりと向きを変えたヒロは、首に絡まって来ると「ナナ大好き」と笑う。まるで海乃のようだ。

 私は空になったオウム貝を掴み、絡まるヒロの手を振りほどき立ち上がる。

 空に掲げたオウム貝に向かって大きく深呼吸。腹の底に力を込めて、叫んでやる。

「愛してるぞー!永遠にっ!!」

 波が持ってゆく。

 遠くで海乃とのぶが振り返る。

「ナナ、カッコイイ!ぼくも!ヒロもやる!」

 腰のあたりでピョコピョコと飛び跳ねながら、ヒロが手を伸ばす。

 無垢な瞳がキラキラと光る。

 五歳になるガキが生意気に!

「おらー!取ってこーい!」

 力一杯、空に放り投げたオウム貝を、万年仔犬男の倅[せがれ]が追いかける。やっぱり仔犬の子は犬だ!



 ピリピリと電子音を響かせて、デッキチェアの脇にぶら下げていた携帯電話が鳴った。

 便利な時代が来たものだ。ヒロが生まれてから、ポケベルは手のひらサイズの電話になった。金持ちが車に

乗せていた電話が、一般人でも持てるお手軽さ!……と言っても、私も会社から持たされているものだ。

 電話をかけてくるヤツなど、ひとりしかいない。

 液晶画面に映し出される名前を確認するまでもなく、私は電話に出た。

「ハーイ、綾!今どこ?」

 オウム貝をヒロに与えて手離した後は、この手の中に納まる箱が私の『真実の穴』になった。

 耳にあてればゴゥゴゥと荒波の音を伝える。

「うっそ!?もう着いちゃったの?ミサオちゃんと……拓実も?わかった。こっちはまだ由比ヶ浜だから…なる

べく早く行く……」

 もう何も隠す言葉も気持ちもないし、嘘にしたい本当も、本当にしたい嘘もない。

「え?何?…………はぁ!?なんでわざわざ電話でそんな事、綾に言わなきゃなんないのよ!?寝ぼけんな!ばー

か!!じゃ切るよ」

 小さいくせに割りと重たい通信機を切って鞄に投げ込む。

 波間でキラキラとカラカラと戯れていた、愛しい家族が手を振りながら歩いてくる。

 私が望み、私が掴んだ、未来永劫続く総てだ。

 私は、貴女を、貴方を、アナタを愛してる。それは決して揺るぐ事がなく、何があっても裏切らない。私

は、私を裏切ら術を知らないから。

 総てに向けて私は唱える。


「ありがとう。愛しているよ」


 海が連れてくる、季節は間もなく秋を迎える。








おしまい。


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