磯和太郎は、彼女いない暦二十三年になろうとしていた。
彼は何をやっても人より劣っていた。ドジばかり踏んでいて、一人前に生活していくことすらできない。会社では『何をやってもダメ太郎』というあだ名をつけられるくらいだった。
僕は初対面の人と、目をあわせることすらできない人見知りな性格もあった。おじおじしていて自信がないために、上司や同僚を苛立たせる。それはどれだけ時間をかけても修正できなかった。
能力も劣っていて、顔見知りなダメ男に近づいてくる女性は当然おらず、今日もまた一人で帰るかと思われた。
そんな仕事帰り、ある女性に誘われた。面倒見がとってもよく気が利くために、男女関係なく慕われている一年先輩の坂口美穂である。僕は彼女を尊敬していて、一度でいいから近づきたいと思っていた。
憧れの美穂と話せるだけで、僕は有頂天になってしまった。彼女からどんなことをしてもらえるのかを想像するだけで、仕事の疲れを吹き飛ばせた。
二人きりでしかも隣同士で夜の道を歩いている。夢を見ているかのようだった。
僕は彼女の指や肩に触れたい衝動を押さえていた。憧れの先輩に指一本でいいから触れたい。彼女はそれほど魅力的な女性だった。
彼女は僕の方を向いた。セクハラしようとしているのを勘ぐられてしまったのか。急いで顔を背けた。
「さっきは訊き忘れたけど、時間は大丈夫?」
僕はもろにかんでしまった。予想外の質問だったからだ。
「だ・・・だい・・・大丈夫です」
「それなら公園まで一緒に歩かない?」
「よ・・喜んで・・・お付き・・・合い・・・させて頂きます」
女性と二人きりで夜道を歩くのが初めてなためか、頭がうまく回転しない。しかも相手は癒し系の美穂とあっては平常心を保てるはずがなかった。言い方は悪いが、別の女性とデートの練習をしてからのほうがよかった。
公園に着くと思いも寄らぬ展開に発展した。まさか彼女のほうからいってくるなんて・・・。
「私、あなたのことが大好きです。付き合っていただけませんか」
ダメ太郎はやんわりと断ろうとした。彼女には別の男性と結ばれて幸せになってほしい。
「先輩にはもっとお似合いの男性がいくらでもいます。僕では釣りあいません」
じれったくなるのを避けるためか、彼女は一気に勝負をかけてきた。普段とは全く違った美穂だった。
「あなたじゃなきゃダメなの。私は他人を傷つけることのできない、あなたの優しさが大好き」
彼は言い訳をつけて断ろうとした。
「僕は優しくなんかありません」
彼女はいきなり最終決定を迫ってきた。緊迫した空気が、夜の冷たい空気と融合して、別次元を作り出している。
「言い訳ばかりするってことは、私と交際するの嫌ってことなのかな?」
断りたいのに心は揺らいでいた。僕は十秒ほど考えることにした。
千載一遇の機会を逃さないため、僕は自分の気持ちに正直になって想いを伝えた。
「こんな僕でよければよろしくお願いします」
「やったー。今日から私はあなたのことを太郎と呼ぶから、あなたは私のことを美穂と呼びなさい」
僕は彼女の名前をいった。唇が震え緊張しているのがはっきりとわかった。
「美穂さん」
彼女は首を横に振った。そうじゃないでしょうと訴えかけてくるようだった。
「呼び捨てにしなさい。さあもう一度」
僕は先ほどにも増して緊張していた。発音が正常にできるか心配になるほどだった。それでも彼女の名前を言い切った。
「美・・・美穂」
「これからはデート中そう呼ぶように。敬語もタブーだからね。対等な関係な付き合いにならないでしょ」
名前を呼んだことでリラックスできたのか、今度はきちんとできた。
「うん」
彼女はうなずいたあと、僕に提案してきた。
「よかったら手を繋がない?」
僕はすぐに手をつないだ。彼女の優しさが伝わってくる。
「ありがとう。私とっても幸せだよ」
まったく交際と縁のなかった僕の人生は、いきなり彼女ができたことで百八十度違ったものになるだろう。