? It's starts with end ?
七月七日
何事もなく、まるで振り子が揺れるように。あっという間に一日が過去に飛び、暗夜に染まる学園都市。
「……六ヶ月って、きっと短いんだろうな」
第七学区にたたずむ白い壁紙の新築された寮の一室で、零れた声は綿のように軽い。
部屋は立派な広さだった。いまだに使ったことのないジャグジーと新品のダイニングキッチン、それから頑丈に作られた鉄の扉も完備されていた。
それをもて余すようにベッドの片隅で唯一孤独に包まれ膝を抱える少年はこの都市においてトップの実力を誇る能力者の一人である。だが、今の彼からはそのような雰囲気は微塵も感じられない。
「何日だっけ、今日……」
◇
七月八日
駅のホームで聞きなれたメロディとアナウンスを聞きながら、ドーム状の屋根に吊り下げられた電光掲示板に目をやる。スライドしてきた第一八学区へ向かう電車には多くの学生や研究員が詰め込まれていた。と言っても、ある程度の余裕は保持されている。
先頭から三両目。ちょうど人が少ないいつもの車両へと緋奈遥斗(あかな はると)は乗り込んだ。
「おはよう、遥斗」
別篠綾嶺(ことしの あやね)はいつものごとく車両後部の吊革に掴まっていた。一〇才の頃、興味津々で初めて電車に乗ったときから彼女はその特定の場所を気に入っていた。居心地が良いと彼女は言うが、緋奈はそれをうまく理解できなかった。
彼女とは小さな頃から一緒にいた。親が親友同士だったため、世間話の間に遊ぶことがよくあったのだ。
「おはよう」
ちょうど同じタイミングで再びアナウンスが流れ、ドアが閉まった。少ししてゆっくりと景色が動いていく。その光景は実に非現実的だった。何トンとあるビルや車があっさりと流されていく。大きな洪水に全てが押し流されているように。
ある日、緋奈が別篠にそれを言うと、彼女は意味が分からないといった表情を浮かべていた。まるで緋奈が別篠から電車のお気に入りゾーンについて語られている時のような顔だった。
「それにしても、能力開発ってのは凄い技術だよね」
幾つ目かの駅を跨いだとき、別篠は景色を眺めながら言った。遠くを見つめるような目で、彼女はそれを何とも思っていないようだった。
「うん。まあ、犯罪も増えたみたいけど」
「その人だけの力だから、悪用も簡単なのは欠点だね」
別篠は一瞬だけ緋奈の方へ視線を移し、すぐに窓の外へとそれを戻した。
「まあね」
すれ違いによる風圧で轟音が鳴り電車が大きく揺れた。吊革を掴まずに立っていた研究員らしき男が一人よろめいた。男は頭の黒髪より白髪が目立っていて、年齢は四〇代前半に見えた。片手には薄めのバックがあって、膨らみ加減から察するに、恐らくそこにはノートパソコンが入っているようだった。よろめいた後に周囲を見渡し、咳払いをしたその男を緋奈はじっと見つめていた。
レベル5以上の少年。違法な研究所からの実験オファーはとんでもない数にのぼった。よろめいた男もかつて実験を持ち掛けてきた人間の一人だった。
「それにしても、大変だね」
別篠は若干の居心地の悪そうな苦笑いを浮かべていた。醜い姿をした爬虫類を見つめているみたいだった。
「そんなものなんじゃないかな。仕方無いんだよ」
「そうかなあ。あ、もう着くよ」
窓を覗くと少し先にいつもの駅が見えた。電車は段階をつけてスピードを落とし、耳障りな金属音と共に駅に停車した。開いたのは反対側のドアだったので、流れが落ち着くのを少し待ってから緋奈と別篠は電車から降りた。研究員の男もこちらの様子を注意深く窺いながらホームへと踏み入った。
「じゃあ、私はこっちだから。学校が終わったら連絡するね」
「うん」
別篠は手を振り、緋奈もそれに答えるように小さく手を振った。その後、二人は互いに背を向け別々の出口を目指し、歩き始める。別篠は長点上機学園へ、そして緋奈は地図には映らない実験場へ。
「やあ、緋奈遥斗くん」
改札機を通過した直後、ひっそりとした糸のような細く気味の悪い声が掛かった。一瞬、聞こえなかった振りをしてそのまま駅を出ようかとも思ったが、緋奈は立ち止まり振り返った。
そこには先ほどの男がいた。頬に溜め池のような広いくぼみを作ったその男は、口元に深いしわを浮かべて微笑んだ。それは数百年前の大地震によって生まれた底の見渡せない渓谷のようだった。
「何の用ですか?」
緋奈は思い切り顔をしかめた。男は小さく笑った。緋奈はそれが気に入らなかったので顔を戻し、鉛弾のように重い溜め息を吐いた。
「私たちは学園都市の計画とは別に秘密裏に計画を……」
「それは聞きました。その上で丁重にお断りしたはずです。いい加減にしないと総括理事会に然るべき処置をとってもらいますよ」
緋奈は吐き捨てるように言って、再び歩きだした。少し距離の空いた地点から研ぎ澄ました刀のような鋭い舌打ちが聞こえたが、緋奈は気にせず目的地を目指した。
第一八学区の平坦な道の途中、一人の少年と肩がぶつかった。それほど強くぶつかったわけではないのだが、相手の少年は受けた衝撃から想定する距離以上に吹っ飛んだ。時速八〇キロで走る車と、時速二〇キロで走る自転車が正面衝突したかのように。それは容赦のない轢ね方だった。
「……いってェなァ」
よろめきながら立ち上がる少年の白い髪は草原のように揺れ動き、尖った赤い双瞳は太陽の光を吸い込み、強く反射させていた。その身体は棒のように細いが、吹っ飛び方から察するに、予想以上に筋力が弱いようだった。
「すみません。大丈夫ですか?」
「チィッ、俺としたことが反射解除したままだったか。クソがァ……」
緋奈が手を差し伸べるが、少年は受け取らず自分で立ち上がった。怒らせてしまったかな、と緋奈は少し悪く思った。彼は密かに呪文を唱える術師のような声で小さく何かを呟いていた。
「あの、大丈夫ですか? すみません、余所見してて」
「ン、あァ、大丈夫だ。あれだァ、握手で許してやるよ」
少年はにやりと笑んで右手を出した。それは筋肉の質感を微塵も感じさせないほど細いものだった。まるで針金が五本、薄い手の甲に刺さっているみたいに。
「ああ、どうも」
緋奈は少年の手を左手で握った。彼の手は長らく地下で眠っていた金属のように冷たかった。少し強く握ると、ゴム生地のようなすべらかな肌の下に冬の木枝のような細い骨の感触が感じられた。
彼の手はまるで精巧に造り上げられた偽物のようだった。どんなに本物に近い外見だったとしても、それに血は流れていない。人間の手と言うより、そんなイメージの方が近かった。
「えっと、これで許してもらえましたか?」
緋奈が訊ねると、少年は無言でゆっくりと頷いた。彼の表情筋は若干の戸惑いを浮かべたまま、凍りついたように微動だにしなかった。そして、彼がレベル5の第一位だと緋奈が知ることになるのはもう少し先のことだった。