小説『とある朱緋の超元浮遊《ディメンジョンマスター》』
作者:白兎()

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   ? The secret plans ?



 「やあ、おはよう」

 「おはようございます」

 実験場にはいつも通りの面子が揃っていた。三〇代の男女が二人ずつと二〇代の女性が一人、それから四〇代の男性が一人だ。全員、一流の研究者らしいが緋奈には研究者にとっての一流と二流の境目も分からないし、全員が二流であったところで何かが決定的に変わるとは思えない。

 「おはよう、今日も実験頼むよ」

 四〇代の男、この場所の所長である井神啓征(いかみ ひろゆき)が二階の研究室からマイク越しに言った。井神という男は実に不可思議な人間だった。いつも微笑んでいるものの、彼がその奥で何を考えているのかが想像できない。
 今も研究室でモニターを見つめながら数式を解いているかもしれないし、あるいは蛇の生態に思いを馳せているのかもそれない。そんな男だった。

 「よろしくお願いします」

 鋼鉄の壁に囲まれた無の空間で緋奈の声が冷たく響いた。数秒間の沈黙の後、硬い足音と共に二〇代の女性研究員と三〇代の男性研究員が緋奈の方へ駆け寄ってきた。

 「おはようございます。本日もよろしくお願い致します」

 男の方はいつも相手との隔たりを強調するような話し方をする。緋奈も似たような話し方をするが、それはあくまでも相手を敬うがゆえのもので、彼のものは?こちらから近付く気はないし、お前も近付くな?といった一種の警告のようなものだった。
 しかし彼は与えられた仕事は完璧にこなす。まるでそれだけに特化したロボットのような俊敏かつ冷静な動き方だった。緋奈は、そんな彼に対して固い印象を感じないわけにはいかなかった。

 「おっす、おはよ。今日もよろしく」

 女の方は最近、研修生として加入した。仕事もミスが目立つが、頭の回転は速い。本当に頭の良い人間なら有り得ない問題だが、彼女は考えていることに手先が追い付かないタイプの人間だった。だが、研修の一環と題して大体の仕事は彼女が行うことになっている。
 ここにいる正規の研究員は先ほどの男を除けば全員が研究という分野外のことには怠慢な体質なのだ。故に研修生の信じ難い態度も容認されているし、男も命令が出ない限りそれを注意することはない。

 「それじゃ、さっそく採血。よっ、と」

 「血管外してますよ、しっかりしてください」

 研修生、牧野美春(まきの みはる)は、まさに「やってしまった」という表情を浮かべた。緋奈はまったく驚かなかった。これがごく当たり前の光景になってしまっていたからだ。
 これが通常通り。むしろ一発で的確に血管に刺された方が違和感を感じるだろう。そして異常に立ち直りが早いのも彼女の特徴である。

 「あ、ごめん。よっし、も一回」

 「牧野さん……怒りますよ」

  ◇


 一日の実験が終了するのはいつも午後三時過ぎだった。緋奈は実験が終わるまで昼食を摂らない。また、空腹を感じることもない。空腹を感じ始めるのは三〇分程度の時間が経ってからだった。脳がまともに稼働を始め、色々な神経が徐々に、次々と光が灯っていくように目覚め、最後に食欲が復活する。そういった感覚だった。

 別篠から連絡が入るまで、少し時間があった。緋奈は片付けが始まっている実験場の前で、空を見上げていた。五分ほどたった頃だったか、裏口から出てきた牧野が緋奈の元へやってきた。彼女もつられるようにして空を見上げた。

 「おつかれさま、緋奈君」

 「……どうでしたか、結果は」

 「やっぱ駄目」

 密かに交わされる言葉は敢えなく無駄に終わったという、いつもと同じ結果報告だった。

 「そうですか。分かりました」

 ?超次元世界の王?
 学園都市の総括理事長、アレイスター・クロウリーは緋奈に向かってそう言った。無形、有形、反転、仮想。全ての世界に存在する座標を操るもの。また、全ての世界に等しく存在し、その力を共有できる者。
 能力というよりは限りなく特殊な体質に近いが、それによって咀嚼するように膨大な演算を処理できるようになっている、とも。

 「ねえ、レベル5第一位の能力を知ってる?」

 牧野が口を開いた。いいえ、と緋奈は答えた。知る必要がない故に知らない、と心の中で付け加えて。

 「第一位、一方通行(アクセラレータ)。あらゆる力のベクトルの向きを操作する能力。さらに、常にベクトルの向きを反射する膜なんかで覆われちゃってたり」

 「凄い能力ですね。第一位というのも納得だ」

 緋奈は見飽きた空から牧野の方へと視線を移した。

 「緋奈君なら勝てるでしょ?」

 「どうして?」

 「無形世界には方向というものが存在しない。ベクトルの向きっていうのは有形世界に依存しているからね。そして有形世界は無形世界に依存してる。つまり、?存在自体が無限世界?の君に反射は通用しない」

 牧野は緋奈の方を見てにっと笑った。それっきり二人は話さなかった。牧野は空を見つめ、緋奈はただ携帯電話が鳴るのを待っていた。いま二人の持つ意識の方向はまったく別のようだった。
 少しして、バイヴレーションと共に携帯電話が鳴った。別篠からのメールで、授業が終わったといった旨の内容だった。待ち合わせはいつも通り、駅のホーム。緋奈は牧野に別れを告げ、携帯電話を閉じると駅に向かって歩きだした。

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