小説『炎の指先』
作者:天鯉雨(二郎、雑記)

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「ねぇ……これからあたしと一緒に、人を殺しに行かない?」
綿貫司(わたぬきつかさ)はこのとき初めて、通りを歩く見知らぬ異性に声をかけた。普段の内気な自分から考えれば、それはまずありえない筈の行動なのだが、現在の、精神の歯止めが利かなくなった彼女にとっては、普段通りの行動はあまりにも退屈であり、そして普段通りの自分でさえも、忌むべき存在でしかなかった。
司に声をかけられた青年は、突然街中で出会った見知らぬ女が吐くその言葉に一瞬、我が耳を強く疑う。さすがに、あまりに穏やかでないその言葉、田舎町ではまずありえない不思議な彼女との出会いに、青年は動揺し、しばらくのあいだ返答を躊躇した。が、目の前にいる、自分と同世代らしき女が、殺人を本当に実行しようとしているとは、俄かには信じがたいことだった。
彼女のその華奢な体つきでは、せいぜい返り討ちにあうのがおちだろう、という考えがすぐさま青年の脳裏に浮かぶ。
「よし……いいよ、殺しに行こう」
結局、彼女の言葉が本気だとは受け取らずに、青年は口元に軽い笑みを浮かべながら返答した。続けて、
「……で、いったい誰を殺すんだい?」
彼女の目を見る限りでは、その言葉は冗談とも思えなかったのだが、青年は彼女と共に、歩みをゆっくりと進め始めた……。

   一.九月十一日

 まず逆さに吊るし上げてから、頚動脈を切り、そして血が流れ出なくなるまでの間、あたしは椅子にでも腰掛けながら、ハリウッド映画の女優さながらに、足を組んで、煙草の煙を燻らせながら待つ。別に、自分の残虐性を嗜むのであれば、喉笛を掻き切る、というのも、それはそれで面白いかもしれない。そういえば、アメリカのグリーンベレーやロシアのスペツナズが登場する映画のワンシーンで、喉笛を掻き切るというアクションをやっていた俳優がいたけれど、あれは嘘だ。隠密行動を主とする特殊部隊の一員が、あんな派手に楽器を鳴らすわけがない。死人に口なし、というけれど、喉を裂いてしまえば、そこから要らぬ仲間を呼ばれてしまうものだ。おならのようにブウブウと鳴るのかと思えば、意外にもその音は口笛に近いものらしい。ああ、だから喉笛というのか……。
 ここまではあたしの妄想だ。実際に試したことがあるのは、どこぞの農場のバイトで鶏の解体作業を手伝ったことくらいしかない。因みにそのときは反吐をあげた。これがもし人間だったら……、などと想像してしまうと、鶏のことですら一週間は肉が食えなかったのに、そんなもん一生食えなくなるだろう、と思わざるをえなかった。それに……人間だと「化けてでるかも」などと考えると、今度は夜も眠れなくなることだろう。どちらにしても、人間相手だと犯罪なわけだし、リスクが大きすぎる。
 勿論、人間相手に実際そんなことやるつもりはない。でも……それくらい、腹の立つことはたまにある。たまたま、今回のは極めつけだ、と、あたしは感じた。こんな妄想をしたというのも、やはりそれなりの相手がいたからのことだ……。

 不本意ながらの、部屋に缶詰状態。いや……、本意か。まあ、プロの小説家を目指す、ってほどのしっかりとした志があるわけでもないのだけれど、「あわよくば」的なニュアンスの志くらいは、あたしだって持っている。「あわよくば」、賞金だって勿論欲しいさ。それに、個人的には何よりも、雑誌なんかの商業誌に掲載されてみたい、たくさんの赤の他人に読んでもらいたい、ってのがあった。
 はっきりいえば、文学とか小説のことなんかこれっぽっちも知らない。でも、そこそこには勉強した。恥をかくのは嫌いじゃないけれど、つまらない恥をかくのだけは勘弁、なんてのもあったから。
 だから、必死になって書いた。小説を。右も左もわからなければ、右も左もわかるようにも勉強した。好きだから、小説が。そして書いた。愛しているから、小説を。
 書き上げた後の印刷にも気を遣った。刷りたての用紙に手垢が付着しないよう、そっと抱き上げるようにして、極力、思う限りの丁寧さで扱った。苦心の末にようやく出来た赤ん坊だから、プリンタから産み落とされる瞬間、その一瞬一瞬にはえもいわれぬほどの感慨深いものを感じた。
 略歴欄を記した原稿にも不備がないか目を通す。ありったけの思いを余すとこなく全部伝える為にも、一言一句に集中して気を割いた。
 原稿を縛る紐にだって、気を遣う。いつもは気にも留めない、スーパー内の一角、ソーイングセットなどを取り扱う「裁縫」というジャンルの売り場、そこにだって足を運び、原稿を綴じる紐の色や太さを、時間の許す限り、何度も何度も選び直した。
 そして、A4サイズの封筒に原稿を厳(おごそ)かに入れた。郵便局から送り出すときには、景気良く拍手(かしわで)を打ってから笑顔で送り出してやった。
 血を分けた姉妹、というよりは、娘や息子といった続柄に近い、そんな存在の塊だった。そこには紛れもなく、愛があった。断言できる。それは、愛だった。

 それから二日後のことだ。知人の結婚式へと出かけたあたしは、お酒が入ることを懸念し、いつもは利用することのない、電車を使った。
 ほろ酔い気分で車窓からの流れ往く景色を眺めていると、ふと向かいの席に座る中年女性たちの会話が耳に入ってきた。
「……大丈夫だって! そこそこにさえ書けてれば、後は私がなんとかしてあげるからさ、応募しなさいよ」
 中年女性の内の一人は、先日あたしが応募した文学賞、その選考委員である、とのことだった。三次審査以降の選考はあの有名な作家が務める、とのことだったが、それまでの審査については、過去の受賞者が数人で選ぶ、とのことだった。
「自信ないわよ、私ぃ……」
「心配しなくてもいいのよ。応募作は腐るほどあるんですもの。いちいち真剣に目を通している輩なんて、いるわけがないわ。三次審査までは絶対に大丈夫だから! 私が保証する!」
「……そう。だったら私、応募してみようかな」
「そのかわり! 三次に残ったときに出る賞金の五万……、それであんたは私に美味しい物、御馳走しなさいよ!」
「あはは、それくらいはお安い御用よ!」
 ……対面する笑顔の中年女性たちとは対照的に、あたしの表情は徐々に凍りついていった。あれほど手間と隙(ひま)をかけて作り上げたあたしの子供が、あたしの知らぬ場所でひっそりと殺されるのだ。あたしの子供だけじゃない。数多の応募者たちの子供、それらが皆、一個人のつまらない欲によって、虐殺、大虐殺されるのだ! 
 ……ミレニアムだ、と皆が騒いでいた年から、あれからもう十年近くも経つというのに、このようなつまらない下衆による不正は、子供の頃に思い描いていたこの未来になっても、まだ、続いていた。信じられない。が、本当だ。本当に、あったのだ! 

 クリスマスに怯える七面鳥のように、バーナーで首を炙ってからぼきりともぎ取る。ぐつぐつと煮えたぎる湯の中に体躯を潜らせると、毛根は死んだのだろうか、羽毛は簡単に毟(むし)り取ることが出来た。毛穴に湯が浸透してくると、今度は俄かに皮膚がてかりを帯び始める。さぁ、後は……足をもいで、腹を……裂くだけだ。
 内臓を取り出したあとは、その腹の中に、あたしの持てる限りの罵詈雑言(ばりぞうごん)を詰め込んでやろう。めでたくないのだから、ハーブも、そして糯米(もちごめ)も必要ない……。

 あたしのひとつ目の妄想は、これで終わった。ふたつ目の妄想は、鬱になった時の為に、もう既に用意してある。
 いまがもし、大昔だったなら、仇討ち御免の免状を片手に、この恨みを晴らせただろうか? それとも、あたしは既に殺された母子(あのとき、ある意味であたしも死んだ。)なのだから、幽霊なのだ。幽霊には法が適用されない。だから…………
 ……などという、つまらない考えを繰り返していたら、いつの間にか、月と太陽も、飽きるほどに交尾を繰り返し、ただだらだらと、新しい翌日という産卵を繰り返していた。
 九月十一日。あたしは、書くことは止めなかった。が、とりあえず考えることは一旦やめた。これ以上考えると、本当に人を殺しかねない、と思ったからだ。
 寝ようと思い、テレビを消そうとリモコンに手を掛けたとき、画面には、過去に起きたアメリカ同時多発テロの映像が流れていた。あれから何年経つのかもう忘れてしまっていたが、罪のない人たちが巻き添えを食うよりかは、あの、審査員である中年女性……、あの女が炎に焼かれて死んでしまえば良かったのに、と思いながら、布団に包(くる)まり、そしてゆっくりと目を閉じた……。

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