フローラは悲鳴を飲み込み、馬車の床に低く伏せた。頭上を強い風が過ぎ去っていき、後ろ髪が引っ張られる感覚に背筋が凍った。
やがて風が収まり、物音がしなくなったところでゆっくりと顔を上げる。噴煙が舞う地上を一目見た瞬間、フローラは馬車のへりに身を乗り出した。
「アランさん!」
「大丈夫さ、フローラ」
不意に、姉の声が背後から響く。「けほけほ」と咳払いをしながら、デボラはフローラの肩を叩いた。彼女に促されるまま、じっと馬車の外を見る。
馬車の守りに入っていたクックルたちの姿がまず見えた。彼らはフローラを振り返ると、安堵したようにうなずく。
川からの風が完全に砂埃を取り払った後、ようやくアランたち全員が無事なことを確認する。全身の力が抜けると同時に、フローラはさらに肝が冷える光景を目の当たりにした。
アランたちから十歩ほど前の地面が深々と抉れ、大穴が空いていた。それだけでなく、穴の周囲にはいくつもの亀裂や焼け焦げて黒ずんだ土が広がっていた。
細い指先を口元に当て、フローラは記憶を探った。確か昔、書物でこれと似たような場面を読んだことがある――あれは、何だったか。
「ふぃー。いやいやいや、間一髪じゃったわい」
いつもの緩い表情に戻ったマーリンが早々に馬車に引き上げてくる。「どっこいせ」と年寄りじみた声で馬車に這い上がる彼に、フローラはおずおずと話しかけた。
「あの、マーリンさん。さきほどの呪文は、まさか」
「おお。さすがフローラ嬢。ご存じでしたか。そう、アレは『メガンテ』。自らの命を犠牲にして敵を滅ぼす究極の呪文ですじゃ」
フローラは息を呑んだ。メガンテの恐ろしさは、どの書物でも身震いするほどの密度で描かれていた。あのような至近距離で放たれていたならば、自分たちは全滅必至であっただろう。
「幸い、アラン殿の素早い判断で呪文が完成する前に制圧することができたのじゃが、それでも余波でこの有様ですじゃ。ま、この辺りにメガンテを使う魔物がいるとは聞いておりましたが、まさか奴らのような頭の緩いモンスターがこうもいきなりメガンテを使うとは、さすがの儂も予想しておりませなんだ。いやはや、恐ろしいものですな」
死地から生還したわりには暢気なマーリンの前でフローラはうつむいた。膝の上に置いた手が微かに震える。
「こら」
突然、横からデボラに頬を引っ張られた。痛みが頭の先まで駆け抜ける。振り返った先で、姉は怖い顔を浮かべていた。なぜか怒っているようだった。
「今気にすべきはンなことじゃないでしょフローラ。何やってんのよ」
「姉さん……?」
「呆けた顔してんじゃないよこの子は。いいかい? あれだけの爆風だ。アランが怪我してるかもしれないでしょうが。あんた、回復呪文が使えるでしょ。そのあんたが行かなくてどうすんの。せっかく好感度を上げるチャンスなのに」
言われてフローラはアランを見た。逞しい彼の背中はこれしきの苦境では揺るがない強さを感じさせたが、確かにデボラの言う通り、どこかに怪我を負っている可能性は十分にあった。たとえ怪我がなくても、無事かどうかを直接確認しに行くだけでも意味はあるだろう。
胸の奥からアランを助けたいという熱い欲求が溢れ出てくる。しかし――
「……」
フローラは、動けなかった。視線を落としうつむく。妹の姿に何か感じるところがあったのかデボラはため息をひとつだけ漏らし、「しっかりしなさいよ」と一言叱咤して馬車を降りる。アランのところへ歩き、何やら話を始めた。
顔を上げたフローラは、デボラがアランに薬草を使う様子を切なそうに眺めた。
「どうして、私は」
この大事なときに動こうとしなかったのだろう。動けなかったのだろう。
アランを助けたいと思った気持ちは、間違いなく本物なのに。
聡明なフローラはこのもやもやした自分の気持ちを分析しようと必死になって考えた。だが納得出来る答えにどうしても行き着かない。
怖かった――違う。
心配する必要も無いほどアランを信頼していた――確かに信頼しているが、心配はしていた。死ぬほど心配していた。だから、違う。
悔しかった――悔しかった?
ふと脳裏を過ぎったその言葉に息を呑む。じっと物思いに耽り、やがてひとつの結論に辿り着く。
心配していた。助けたいと思った。けれど。
アランさんの力は、すでに私なんか必要としないほど、強い。
それがどうしてか、とても悔しかったのだ。
自分は本当に彼の力になれる器なの? わからない。わからないから、自分の覚悟が見えないから、だから動けなかった。立ち止まってしまった。
彼の存在の大きさに怖じ気づいた自分が、悔しい。だから。
「フローラ、大丈夫かい?」
気がつくと、アランがすぐ側に立っていた。眉間に皺を寄せひたすら沈思黙考する彼女を心配してくれたのだろう。フローラは一度瞑目し、それから体の力を抜いた。目を開け、アランに向き直ったフローラは瞳に意志の力を込めて、告げる。
「アランさん、ごめんなさい。私、もっと頑張ります」
その意味を計りかねたのだろう。一瞬目を丸くしたアランは、しかしすぐにフローラの決意を感じ取ってくれた。吸い込まれそうな深い色の瞳を見つめながら、フローラはもう一度、言葉にして伝えた。
「頑張りますから」