小説『接吻』
作者:東雲咲夜()

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 消毒液の匂いがするドアを開けると、白いカーテンがふわりと揺れていた。
 少しだけ開かれた窓から、柔らかな春風が吹き込んでいた。
 春の香りを纏った風は、桜色の花びらをも運んできていた。
 白い部屋の白いベッドの上で、悠里は静かに横たわっていた。
 遼は室内にある椅子を運んで、ベッドの側に座った。
 薄く微笑みながら、眠る悠里の顔を遼は眺めた。

 まるで死んでいるのではないかと思うほど、静かで穏やかな呼吸。淡い日差しに照らされた顔色は青白い。
 悠里が眠っていて良かった。ぼんやりと遼はそう思った。
 時折、こうして遼が病室を訪れると、彼女は窓の外を眺めているときがある。
 視線は外に向いているのに、景色を見てはいない。
 何処をも見ていない、虚ろな視線。その視線が、たまらなく怖かった。
 彼女が、自分手の届かないところに行ってしまうような気がするから。
 だから、穏やかに眠っている悠里を見て、遼は安心した。
 本当はすごく不謹慎なのだけれど。悠里は、いつ死ぬかもわからないのだから。

 遼は眠っている悠里の手を取り、掌へと優しくキスを落とす。

 細い腕には、点滴の痕が青黒く残っている――悠里は、不治の病に侵されている。
 病名も、治療方法さえもわからない。手の施しようのない状態。
 ただ、幸いなのは痛みを感じないこと。でもそれだけで。
 ゆっくりと、ただゆっくりと体が衰弱していく……それはどんなに恐ろしいことだろう。
 そんな状態だと、生きていることすら忘れてしまいそうになるんじゃないか。
 遼はそう思った。
 それに最近は、悠里はよく眠るようになった。浅い眠りではなく、深い眠り。
 だんだんと起きていて、言葉を交わす時間が減っていく。
 悠里の気持ちよさそうな寝顔を見て遼は思う。
 いったい彼女はどんな夢を見ているのだろう。その夢の中に、自分という存在はいるのだろうか。
 不安に胸を支配されて、己の無力さに吐き気を催す。
 遼にできることといえば、悠里と話してあげること。手を握ってあげること。楽しい話をすること。
 少しでも、悠里に笑っていてほしいから。
 だから、よく遼は悠里の掌にキスをする。
 眠っている彼女に、自分の想いが少しでも届くように。夢の中でも忘れてしまわないように。

 それから遼が悠里の髪を撫でていると、悠里はゆっくりと目を開けた。遼は優しく声をかけた。
「おはよう。よく眠れた?」
「ん……おはよう。何だかとってもいい夢をみてたよ」
「そう。どんな夢だったの?」
 嬉しそうに微笑みながら悠里はいった。
「遼と一緒にね、桜並木を歩いてたの。とてもたくさんの桜が咲いてて、すごく綺麗だった」
 今度車椅子で見に行こうな、といいながら遼の心は晴れなかった。
 忘れられていないのは嬉しいけれども、そう喜んでばかりもいられない。いつどうなるかわからないのだ。
 明日にでも脳に障害が起こって、記憶を失う可能性もないわけじゃない。
 そんな不安定な状態なのに、悠里は笑ってくれる。だから、自分も笑わなくちゃいけない。
 いつのまにか、遼はそんな風に思うようになっていた。
 悠里の眼が完全に覚めたのを確認すると、遼は小型冷蔵庫からりんごを取り出して、剥き出した。
 しゃりしゃりと小気味いい音が病室に響いた。
 手早く向かれてカットされたりんごの形は、かわいいウサギ。悠里は、ウサギの形が大好きだから。
 起き上がった悠里に、つまようじに刺したウサギを一つ渡した。
 にこにこと微笑みながら、悠里はそれを美味しそうに食べていた。
 特別高級なりんごでもないのに、そんな風に食べてくれる彼女を遼は愛しいと思った。
 理由を問えば、きっとこういうのだろう。
 遼が向いてくれたから、美味しいんだよって。悠里は、とても優しい人だから。
 りんごウサギを食べながら、悠里は話す。
「最近はね、体の調子もいいんだよ。だるくないし、お腹もちゃんと空くし。夜も、よく眠れるの」
「調子がいいからって、あんまり食べ過ぎるなよ? 退院したら、体型変わってましたなんて笑えないからな……」
「そんなには食べないよ。遼こそ、体大丈夫?」
 自分の事なんていいから、ただ幸せに生きて欲しい。
「別に大丈夫だけど、どうして?」
「だって、たまにわたしが熱だしたりすると、夜通し側にいてくれてるんだって。看護婦さんから聞いたよ?」
「ああ。いいんだよ、別に。好きで悠里のところに来ているんだからさ。気にしなくていいんだよ」
 それならいいけど……といって、悠里はつまようじを置いた。
 結構あったりんごウサギは、いつの間にか半分くらいに減っていた。やはり、りんごが好きらしい。
 皿を片付けて、悠里の方を見ると、彼女は窓の外を眺めていた。
 その視線は話していたときと違って、どこかおぼつかなかった。
 また――外を見ている。正確には、景色でもない何か。
 そんな顔を見たくなくて、自分を見て欲しくて、遼は気を引くように声を掛ける。
「そういえばさ、桜、満開できれいだよな」
 くるりと、悠里が振り向いた。その顔は、いつもと同じで。
「ね、きれいだよね。香りもするんだけど……ほら、花びらも飛んで来るんだよ」
 そういって悠里は自分の枕元に落ちている、薄い花びらを何枚か拾い上げた。
 皮肉な事に、悠里の白い指に、薄い桜色の花びらはよく映えた。
 ぽつりと、悠里が言った。
「夏になったら、ひまわり畑に行きたいな」
 少しだけ、遼は驚いた。ひまわりが好きだなんて、今まで一度も聞いたことがなかったから。
「ひまわりか……いいかもな。悠里って、ひまわり好きだったっけ?」
「正確には、好きになったの。前はね、ちょっと眩しいかなって思ったんだけど……」
 そういいながら、また悠里は窓の外を眺めた。
「今はね、元気があっていいなって。なんだか、わたしも元気をもらえそうな気がしたから」
 こちらを向いて、ふわりと微笑んだ悠里。
 その笑顔は、今にも消えてしまいそうな程儚かったけど、とても綺麗だった。
 やっぱり、彼女の笑顔が一番だ。遼はそう思った。
 その笑顔を、ずって見ていられるのならば。
「行けばいいんだよ、ひまわり畑。悠里が望みさえすれば、連れてってあげるから」
 だから、どうか泣かないで。
「ありがとう」
 悠里は、そう言ってくれた。
 
 その後しばらく喋っていたけれど、悠里は疲れたのか眠ってしまった。
 すうすうと気持ちよさそうに眠る悠里に、遼は毛布をかけてあげる。
 少しだけ変な体制だったので、起こさないようにして楽な姿勢にしてあげた。
 抱き上げた悠里の体はとても軽くて、遼は泣きそうになった。
 服も調えてあげて、最後に掌を握ってから、くちづけた。
 
 遼は、ただ願うことしかできなかった。祈ることに何の意味もないのは、知っていたから。
 悠里を助ける為に必要なものがあるのなら、何だって用意しているだろう。
 たとえ神様に、お前の命と引き換えだといわれても、即座に頷くだろう。
 誰かを殺して助けられるのならば、躊躇いもなく罪を犯すだろう。
 何をしても構わないほどに、遼にとって悠里は大切な存在だから。
 だからこそ、懇願は強くなった。

 笑っていて、くれるだけでいい。 生きている、それだけでいい。
 悲しい顔をしないで、泣かないで。俯かないで、前を見て歩いて。
 真っ直ぐに、進んで欲しい。
 いつ何処にいても、幸せであって欲しい。 
 悠里の隣に、自分がいなくてもいいから。他の誰かのものになってもいいから。
 自分だけを見てくれなくてもいいから。
 
 どうか、俺より先に死なないで――

 遼は自嘲気味に笑ってから――ベッドの上に、頭を静かに乗せた。
 穏やかな悠里の心音が、聞こえたような気がした。

 
 笑っていてください 泣かないでください 生きていてください しあわせに

 誰もが望む、ほんの些細な願い事。

 それはゆっくりと舞い降りて――やがて消えていく。

 

 掌の上なら懇願のキス

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