小説『接吻』
作者:東雲咲夜()

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 雨粒が降り注ぐ昼下がり。透夜は急ぎ足で階段を上っていた。
 マンションのエレベーターを利用したようとしたものの、生憎故障中だった。
 いきなり降りだした雨のせいで、足元がよく滑る。
 転ばぬように気をつけながら、五階に住む恋人の元へと向かっていた。
 本当はもっと早い時間に来る予定だったが、用事があって遅れてしまった。
 でも、雨の日の逢瀬というのも悪くはないかもしれないと透夜は思った。
 かなり急いで階段を上っていたので、五階へと着くのは早かった。
 扉の前へ行き、鞄から鍵を出して開ける。水気を払ってから玄関へと入り、部屋の中にいる彼女へと声を掛けた。
「愛理、来たよ」
 開け放たれた窓から外を向いていた愛理が、透夜のほうへとくるりと向き直った。
「あ……こんにちわ、透夜」
 そのままとてとてと走ってこようとして、少しよろめいた。
 転びそうになるのを見て、透夜は慌てて愛理の傍へと近づいた。
「そんなに急がなくてもいいよ。大丈夫?」
「ええ、大丈夫。ありがとうね」
 愛理をベッドに座らせてから、透夜は開け放たれていた窓を閉めた。
 床を見ると、少し雨が吹き込んでしまっていた。つまり、愛理も濡れてしまったのだろう。
 部屋に置かれているタンスの中からタオルを取り出してベッドへと向かった。
 座っている愛理はあらぬ方向を見ていた。
 隣に腰掛けて、自分の方へと引き寄せた。声を掛けてから、透夜は髪の毛を拭きはじめた。
「ねえ愛理」
「なに?」
「さっき窓の外を向いていたけれど……何を見ていたんだい?」
 彼女は、目が見えないはずなのに。愛理は交通事故にあって見えなくなってしまったから。
 不思議に思いながら、愛理に尋ねた。
「見えないけれど、外の雰囲気とか、匂いとかは分かるから。雨降ってるでしょ? 少し湿っぽかった」
「そう。雨は好きだったかな?」
 髪を拭きながら、愛理に透夜は尋ねる。
 微かに微笑みながら愛理は言った。
「別に好きじゃないけれど……目が見えない分、そういうものがとても大切に感じるのよ」
 目が見えないと、他の部分が敏感になるというけれど……そういうものなのかもしれない。
 雨の日の匂いとか、空気とかを大事にするのもいいけれど――
「でも、濡れてしまったよね? 次は気をつけないと」
 透夜がそういうと、愛理は少し俯いてしまった。
「ええ、そうねごめんなさい。次からは気をつけるわ」
「まあ僕がいるときならばいいけれどね。ちゃんと拭いてあげられるし」
 髪を拭き終わったから、次は顔も拭いてしまおう。
「さ、次は顔を拭くからね。最初は目は閉じていてね」
 素直に頷いた愛理を見て、自然と透夜の顔も綻んだ。
 ベッドを離れ、濡れタオルを用意してから彼女の顔を拭き始めた。
 力を入れすぎないように丁寧に顔を拭っていく。愛理の表情を見ると、気持ちよさそうに見える。
 手際よく顔を拭いた後に、透夜は愛理に声を掛けた。
「次は、目の下を拭くから、開いたままでね。……怖い?」
 愛理の眼は視力を失っている。明暗もわからないし、触れられても何も感じないらしい。
 見えないから意識しなくなり、感覚までもが薄れてしまうらしい。
 その状態だと、いくら親しい人とはいえ怖いのではないのだろうか。
 そんな心配をしていると愛理が言った。
「別に……透夜なら平気だよ。ありがとう」
 そっと目を開いた愛理の顔を透夜は覗き込んだ。
 黒く濡れた瞳には、自分の顔がぼんやりと映っている。光を反射するものの、ただの光のままで。
 口元は微笑んだままなのに、虚ろな瞳を開いた途端、愛理の顔が無表情に見えた。
 いったい暗闇の中で彼女は何を考えているのだろうか。
 そんな事を思いながら目の下をタオルで拭う。
 そのまま、終わったよ……と声を掛けようとして、止まった。
 その一瞬、透夜の頭の中にとある考えがよぎった。
 口角を吊り上げて、透夜は小さく笑った。
 そのまま、タオルを下に落としてから、愛理の顔へと近づいた。
 軽く瞼を押さえたまま、眼球へと口付けた。羽のように、軽いキスを。
「透夜? どうかしたの」
 すぐ傍から愛理の声が聞こえて、透夜は我に返り愛理から離れた。
 自分の中の感情を抑えながら、愛理に声を掛ける。
「なんでもないよ……はい、拭き終わったよ」
「ありがとう」
 何も知らない彼女は綺麗に微笑んだ。その笑顔を見てまた胸がざわついた。
 タオルを片付けてから、愛理の隣へと腰掛けた。片手で抱き寄せて、空いている手で髪を梳く。
 自分の体に愛理が体重を預けてくるのを透夜は感じていた。
 薄く微笑みながら、愛理のことを考えていた。



 二ヶ月前、駅前の道路で愛理は交通事故にあった。
 体の方は特に大きな怪我はなかったのだけれど、割れた窓ガラスの破片が目に入って失明した。
 また事故のときに、頭を強く打っていた。そのせいで、一部の記憶も失ってしまった。
 事故の前、愛理は誰かに突き飛ばされたといっていた。姿はわからなかったけれど。
 今までの知識、日常生活に必要なこと、自分の名前。そのどれをも愛理は失っていなかった。
 失ってしまったのはただひとつ、透夜に関する記憶だけ。
 病室のベッドに横たわる彼女を眺めていた透夜に、目覚めた彼女はいったのだ。
「どちら様ですか?」
 その時を思い出すと、自虐的な笑みが透夜の口から漏れた。
 愛理の体が少し動いた気がしたけれど、気にしないことにした。
 その時は、罰が当たったんだろうと透夜は思った。
 だって、愛理を突き飛ばしたのは透夜自身なのだから。
 カミサマなんていないから、きっと自業自得なのだろうと。ずっとそう思い続けている。
 愛理が記憶を失う前、透夜の関係は少し冷めはじめていた。他に男がいたのかどうかはわからない。
 けれども、透夜から愛理の関心が離れていったのは事実。だから、焦ったんだ。
 だから……怪我をすれば、看病することができるから。軽く突き飛ばしてみたんだ。
 その結果、愛理に忘れられてしまった。本来は悲しむべきなのだろう。愛する人なのだから。
 でも、透夜はそうは思わなかった。
 愛理は、透夜だけを忘れてしまったことに罪悪感を感じている。そして、責任も。
 そんな彼女をとても愛しく思っている。透夜に対して責任を感じている彼女を。
 思い出そうと努力をして、思い出せないと悩んで、申し訳ないと悲しくなって。
 ぜんぶ、透夜のことを考えてくれているのだから。
 たとえ過去に興味を失っていたのだとしても、今は一心に考えてくれている。
 だから、透夜は今の状況に満足している。
 愛しい愛理が傍にいて、一生懸命に想ってくれている今の状況を。 
 自分でも、歪んだ考えだとは自覚している。けれど、愛理さえいてくれればそれでいい。
 たとえ、愛理から拒絶されていたとしても、だ。


「ねぇ……透夜、どうしたの? さっきから笑っているけれど?」
「ん……ああ、声にでてたんだね。ちょっと、可笑しくて仕方がないことを思い出していたんだよ」
 ふぅん、といいながら愛理はそれでも微笑んでいた。
 透夜は目を細めながら愛理に尋ねた。
「ねぇ、愛理は僕のこと――愛しているよね?」
 それは、二人を縛り続けるための言葉。返ってくる答えは、常に望むものでならなければならない。
 もしも違えることがあったならば……その時はまた繰り返すだけ。
 予想どうり、返事は透夜の望むものだった。
「ええ。愛してるわ。今も、前の私もきっとそういうわ」
 少しだけ後ろめたそうに笑いながら話す愛理。
 それを眺めながら、透夜は胸の奥でそっと呟く。

 壊れても 愛してあげるよ

 歪んだ想いを込めて、透夜は愛理を抱きしめた。



 狂気の想いはいつまでも燻り続ける 消えることなく密やかに
 
 時が来れば いずれは熟す禁断の果実

 抗え切れずに きっと果実を口にしてしまうのだろう

 
 さてそのほかは、みな狂気の沙汰

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