37:寝るなら言うな、言うなら寝るな
「ふぁ……なんか疲れたなぁ……」
俺は大きなあくびをした。
ただ雑談しただけだっていうのに、以外とくるな。
空にはすでに白い月が出てきており、辺りはゆっくりと赤から黒へと変化していた。
ちょっと急がないとまずいかな。
そんな寮への帰路へつく現在、未だに疲れることがある。
「ちょっと! あんた近寄りすぎ! 離れなさいよ!」
「鈴さんこそ!」
「あ、信。ちょっと歩くの速いかも……」
「むう……私だけで充分だと言ったのに……」
「……みんな、凄く歩きづらいから手を離してくれないか?」
「「「「だめ!」」」」
即答。俺はため息すらつけない。
どんな状況下にいるか、簡潔に説明するとこうだ。
『四人の女の子と手を繋いで歩いている』
どうやってるのかって? 左右の指を二本ずつ捕まれてるんですよ、これが。俺の自由は親指一本のみ。今日はやたらと自由を制限される日だなぁ……。
ちらりと横を見ると、一夏と箒が並んで歩いていた。
「い、一夏……そ、その……私たちも、てっ、手を、だな……」
「ん? 手を繋ぐのか? 俺は別にいいぞ」
「あっ……」
「なんで顔赤いんだよ?」
「あ、赤くなどない! こっ、これは夕日のせいだ! そうだからな!」
ほら見ろ。あれが正しい繋ぎかただよ。みんなよく見て。
「あら。おねーさんだけ仲間外れになっちゃったわ……くすん」
そう言いつつ、左側にいる楯無さんはニコニコしている。あれが年上の余裕というやつなのだろうか。
そんなことを考えていると、シャルがひょっこり斜め後ろから顔を出した。
「でも信のお父さんとお母さん、元気そうでよかったね。なんかこっちまで元気になっちゃったよ」
「ま、なんか孫の顔見るまで死ねないとか言ってたから、まだまだ元気だろ」
「そ、そっか……し、信の……こっ、子供かぁ……」
「でも当分先だろうなぁ〜。ていうかまず俺と結婚してくれる人なんているのかよって感じだよな」
「い、いる! 絶対いるよ! 僕が保証するから!」
「お、おう……ありがとう」
やけに熱のこもった返答がだったので、面食らってしまう。
すると、シャルはちらちらと俺の様子をうかがうように目を泳がせ始める。
「と、というか何なら僕が……」
「紹介してくれるのか? 結婚相手」
「……もう……確信犯よりたちが悪いよ……」
シャルはボソボソ何か呟きながら、赤く染まった顔を俺から背けて、一歩後ろに戻っていった。
最後の結婚相手を紹介してくれるっていうやつは本当だろうか。だとしたら少し期待しておこう。少しね。
「結婚……」
右手を握る鈴が小さく呟いたのが聞こえた。俺がそっちを向くと、鈴と目があった。
「どうした?」
「へっ!? べっ、べ、別にあんたに見とれてた訳じゃないわよ!?」
鈴はやけに言い訳じみた言葉を並べる。変に焦っているせいか、顔が赤い。
「あ、あれよ! え、えーと……そ、そう! あんたの子供の頃から変わってないなって!」
「はぁ?」
「さ、さっきあんたの母親から写真見せてもらったのよ!」
「何をやっているんだ、母さん……」
「だっ、だからよ! 文句ある!?」
「いや、ないけど……」
「でっ、でもあれね! あ、あんたの子供の頃よりあたしの子供の頃のほうが何倍もかわいいわ!」
「あのなぁ、そんなの当たり前だろうが。鈴は今もかわいいんだから」
「にゃひっ!?」
「おいおい、照れるなって。あははっ」
「……うぅ……ばかぁ……」
鈴は真っ赤になったかと思うと、俺の指を握りしめてうつむいてしまった。本当のことだから、そんなに照れる必要もないのになぁ。
ていうか、たまに鈴をからかうのも面白いな。また違った一面が見られて。
「し、信さん!」
「ん? セシリア、どうした?」
「その……こ、今度私の写真も見ていただければと……へ、部屋にアルバムがありますので!」
「セシリアのアルバムか〜……きっと俺が見たことないようなセシリアが写ってるんだろうな」
「そ、そうですわね! 信さんの知らない私が写っていますわね! きっと!」
「じゃ、セシリアのことをもっと知ることができるわけだ」
そうえば、セシリアってまさにお嬢様って感じだから、小さいころのこととか勝手なイメージでしか知らないんだよな。
ま、部屋の様子とか見ると……子供時代は一体……。
「そっ!? そ、そそそ、それは私のことを、も、もも、もっと深く知りたいと言うことでしょうか!?」
「ど、どうした? 落ち着けよ……ま、まぁ、そういうことになる……のか?」
「は、はいぃ……」
あれ? セシリアの様子が変だぞ? 顔が真っ赤でボーッとしてる。夢でも見てるみたいに幸せそうな顔して……夢遊病か? ……意味違うか。
と、今度はラウラが少し機嫌の悪そうな顔をして、手を引っ張ってきた。
「おい。お前は私だけ誉めていればいいんだ。私の嫁なのだからな」
「あ!? ラウラさぁ、俺の両親の前でその呼び名使ったろ!? 『嫁……!ぷくく……』とか言われたのはそのせいか!」
「何が悪い。本当のことだろう?」
「お前なぁ……」
「いいからさっさと誉めろ。好きなだけ誉めろ」
ラウラはいつものように少し冷ややかな目だったが、多少期待の色が見てとれた。
半ば間違った知識にあきれながらも、なんだか微笑ましい気分になるのはなぜだろう?
「あーもー……じゃ、誉めるぞ」
「な、なにっ!? ほ、本当かっ!?」
「ああ。いっつも誉めろ誉めろ言われるしな」
「い、いいだろう! さぁ来い!」
俺はコホンと、通過儀礼的な咳払いをする。
「ラウラはいつまでたっても勘違いしてるからそこは直してほしいです」
「う……む? ほ、誉めてないじゃな――」
「でもそこがラウラのいいところでもあり、とてもかわいいところだと俺は思う」
「――いっ!? な、なな……!」
「ま、嫁って言われるのにも慣れてきちゃったし……それに、ラウラが呼んでくれてるってすぐ気付けるしな」
「あ……ぅ……」
俺がちょっと笑顔を向けると、ラウラは何か言いたそうにして顔を伏せてしまった。さらさらとした銀髪が顔を隠してしまったので、どんな顔をしてたのかわからない。
でもできれば人前では自粛して欲しいかも知れないな……人混みの中とかで『嫁!』とか呼ばれたら……想像しただけで恥ずかしすぎる。
「あ〜みんなずるいわ〜。信くん、私にも何かないの?」
先程まで横にいた楯無さんが、俺の行く手を阻むように立ちはだかったので、俺たちは歩みを止めざるを得なくなった。
ちょっと。急がないと織斑先生にボコボコにされるんですが。生徒の安全を考慮して退きましょうよ。
「ほらほら。未来のお嫁さんをもっと誉めたら?」
「なんですかそれ……大体、俺なんかが楯無さんと結婚できるわけないでしょう?」
「でも私たち許嫁よ?」
「許嫁だろうがなんだろうが……へ?」
あれ? 今……なんて言った? 今なんて言った!?
俺の耳は確かに……いやいや。許嫁と聞こえましたが、空耳ですよね? そうですよね?
ちらちらと横に目をやると、周りもみんなも思考が停止してキョトンとしていた。
唯一頭が働いている楯無さんは、クスクスと笑いながら、扇子をパッと広げた。
「だから。許嫁。い・い・な・ず・け」
ビシッと腰に当ててポーズを決める楯無さん。うん、似合ってる。
いや違くて!
「なっ、なに言ってるんですか!? 言葉の意味わかってますか!?」
「ほら、父と誠さんが知り合いだって言ったでしょ? なんだか信くんの話をされるうちに、『こいつだ!』って思ったらしいわ」
「そ、それはいくらなんでも適当すぎでしょう!? た、楯無さんはそれでいいんですか!?」
「ううん。よくなかったよ」
「でしょう!? よくな……え? 『かった』?」
なぜに過去形? それじゃあまるで――
「親が勝手に決めたことだったから、不満だったわ。でもね、『百聞は一見にしかず』っていうじゃない?」
「どっ、どういうことですか!?」
楯無さんはくるりと俺に背を向け、また数歩前に進んだ。そしてまた振り向いた。今度は、太陽のような明るさをもった笑顔で。
でも同時に少しだけ恥ずかしそうで、それでいて照れくさそうで。
いつもは大人な感じがする楯無さんが、その時は年相応の少女に見えた。
「信くんと一緒になれるならそれでもいいかなって、今は思ってるよ」
「はぁ!?」
「ふふ。じゃ、2年生の寮はあっちだから。ばいばーい♪」
楯無さんは大きく手を振って駆けていく。その頬は夕日に照らされているにしても、少し赤みがかかっていた。
しばらくの間ボーッとしていると、両手が思いっきり引っ張られた。
よく脱臼しなかったな、俺の肩。後で湿布張ってやるからな。
「信? 僕すごーく気になることがあるんだけど」
「あんたねぇ……」
「どういうことですの?」
「今日は無事ですむと思うなよ」
ちらりと一夏と箒に目を向けるが、どうやら助けてくれないらしい。なんか手を合わせて拝まれた。
往生しろってか!? この年にして仏になれってか!?
((というか普通に興味ある))
そんな心の声が聞こえた気がするんだけど、どうすりゃいいんだ。
はぁ……なんだか波乱の予感がする。外れてくれればいいんたけど。
俺はとりあえず、手を握る力を弱めてほしかった。
◇
「もしもし、ちーちゃん?」
『……なんだ束……』
「やっぱり飽きたから帰るねー☆」
『お前というやつは……やはり何を考えているかわからん』
「テヘッ♪」
『……まぁいい。厄介ごとが一つ減ってこちらとしては好都合だ』
「あ、あれぇ? 『真宮の専用機はどうするんだコノヤロー!』とか言わないの?」
『お前が帰るということは、もう目処がたったということだろう?』
「あはっ☆ ばれたー?」
『いや、あの後いろいろ考えていてな……先日のあれは芝居だったのだろう? お前はあのコアたちに嫌われているようだからな。直接手を加えることはできない。違うか? ……となればだ。お前の次にあのコアをよく知っている人物に頼むしかない』
「お芝居って難しいよね。なんか挑発してるみたいになったけど、うまかったかな?」
『さぁな。何にせよ、お前がしたいことは本当にわからん』
「それはちーちゃんが考え過ぎてるからだよ〜☆ 私はしたいことをしてるだけ。思い付きで、ね♪」
『……ふん』
「えへ。それじゃ、バァーイ☆」
束は携帯を閉じた。
「……よろしいのですか?」
銀髪の少女は感情のこもっていない声で、今しがた通話を終えた束の後ろに立つ。
束はIS学園のシンボルタワーの頂点近くにある、膨らんだ円盤のようなところに腰かけていた。地上から何メートルもあるそこから、束は足を出してブラブラさせていた。
「いいのいいの。あとはあの人たちがどうするかだよ。最初はしーくんが私の思い通りに動けばいいかなって思ってたけど……昨日ね、聞いたの! 『恋とは思い通りにならない』ってね! だから、私の思い通りにならない方法を私の思い通りに選んだのさ! えっへん!」
「……そうですか」
「それに、くーちゃんが頑張ってくれたから、あそこには設備もパーツもありとあらゆるものが揃ったからね」
「ありがとうございます」
「だから、それなりにいい機体が出来上がると思うよ。ただ完成までにお偉いさんがどんな決断をするか、だね」
「……本当によろしいのですか? 真宮信という男の現在の立場をそのまま捨て置いて」
「んー?」
「……束様はあの男性に好意を抱いているのでしょう? ならば、周りで渦巻いている障害は取り除くべきではないでしょうか」
淡々と語るその口調からは、果たしてそれが自らの考えなのか、それとも一般論を述べているのか、うかがい知ることはできない。
わかるのは、その少女が束を心配しているということだけである。
「ふふ。くーちゃん、あのね。『恋は障害が多いほど熱く燃え上がる』っていう、昔からの言い伝えもあるんだ〜」
「……私にはよくわかりません」
「うーん。まだくーちゃんには早かったかな?」
「そうかもしれません」
さらさらと、風がそれを運ぶように、ゆっくりと時間が流れていく。
「ま、何にせよ障害は多いのは間違いないね。さてさて、どうしたものかなぁ……」
束は独り言のような呟きを放ち、そして笑った。
「でも、これくらい乗り越えてくれなきゃ私の旦那様にはなれないよ、しーくん。私をいーっぱい驚かせてね♪」
見上げた星空には、数多の星たちが月に負けまいと光輝いていた。
◇
今日の最後の授業が、終わった。
みんなが待ちに待っていた放課後とあって、教室が一気に騒がしくなる。
「ねぇねぇ! やっぱりオーソドックスにお墓がいいよ!」
「うーん……でも廃墟も捨てがたいよね〜」
「私、ぜっったい病院がいいと思う!」
ここ一年四組では、すぐさま大多数の女子が円陣のように集まり、文化祭の出し物にいつて、つまりここでは『お化け屋敷』というものははたしてどのようなシチュエーションが一番いいか、先日から議論している。
なかなか決まらなかった出し物がお化け屋敷に決まったと思えば、次はこれである。
脇の席で、簪は少し冷ややかなため息をつく。
和気あいあいとしているのが、実にくだらないとでも言いたそうに。
さらさらと授業の要点をノートにまとめると、簪は立ち上がり、教室から出ていこうとする。
「あっ! 簪ちゃん! どこ行くの?」
「……整備室……」
「そ。じゃあ私たちだけで決めちゃうね!」
たまたま話しかけてきたその女子に悪気はないのだろうが、簪はなんだか複雑な気分になった。
『私たちだけで決めちゃう』?
それではまるで、『あなたがいなくても関係ないから』と言っているみたいではないか。
(……別に、いいけど)
少しだけ顔をしかめたが、簪はさっさと教室を出ていく。
自分にはそんなことをしている暇はない。
駆け足にはならないにしても、早歩きにしては速いスピードで廊下を通り、更衣室へと向かう。
今日はバイタルデータの入力をするつもりなので、ISスーツを着用するのだ。
階段を降り、外に出る。速度をまったく緩めずその歩を進めて、ようやくアリーナの前に到着。
数週間前までは自主練習をする生徒がちらほらいたが、学園祭準備期間ということもあり、今はめっきり人が来なくなった。簪としては雑音なしで作業に集中できるので好都合なのだが。
更衣室に入るとすぐにロッカーの扉から自分のISスーツを取り出し、手早く着替え始める。部屋に静かな衣擦れの音が響く。
そんな音を聞きながら、簪はふと、静けさになれている自分に気付いた。
(独り……か……)
そうえば、いつの間にかそれが当たり前になっていた。気付けばいつも整備室にこもって、打鉄弐式の作製にかかりっぱなしだ。友達らしい友達などいないし、作ろうとも思わない。
簪は少しだけ心が痛んだ気がしたが、その痛みを吐き出すように大きなため息を一個つくと、顔を上げた。
そんなことはどうでもいい。今はやるべきことがある。
着替えを終えた簪はロッカーを閉めてそういい聞かせた。
ひどく言い訳じみているようなその答えで自らを無理矢理納得させ、簪は誰もいないはずの整備室に足を向ける。
ロッカールームから整備室まではさほど距離もなく、数分で到着した。自動ドアが勢いよく開き、見慣れた情景が簪を迎える。
きれいに片付いているとは言えないが、それなりに足の踏み場もある床。とりあえずついているものの、気休め程度しか日光が入ってこない天窓。
簪が扉のすぐ横にあるスイッチを押すと、薄暗い室内が人工的な光に照らされ、パッと明るくなる。
すると、部屋の内部から何やら音が聞こえた。
「……うー……ん……? ……ZZzz……」
「えっ……?」
簪が目にしたのは、『打鉄弐式』の前で眠っている信の姿だった。
いつもは簪が座るはずの、少し長めのベンチのような椅子に横になっていた。
信は制服姿のまま、椅子からはみ出した片腕を床にだらりと伸ばしている。浮かべた微笑は子供のように無邪気で、とても優しい。
随分と気持ち良さそうに寝ていて、簪は困ってしまったが、このままでは作業に支障をきたすので、信を起こすことにした。
ゆっくり、恐る恐る近付いていく。近くまでくると、しゃがんで信の顔をじっと見つめる。無性にドキドキしているのは何のせいなのか、簪にはよくわからなかった。
とりあえず肩でも叩いてみようと控えめに手を伸ばそうとすると、何の前触れもなく信の口がモゴモゴと動いた。
「……かん……ざ……し……」
「……ぇ? ……えっ……!?」
焦ってしゃがんだまま後ずさりしようとするが、うまく足が動かない。もつれた足につまずき、ペタンとしりもちをついてしまった。
頭が熱を帯びていて情報処理速度が格段に落ちてるが、それでもなんとか状況を整理し、簡潔にまとめる。
名前を、呼ばれた。それも、下の名前を。
理解が終わると一気に心拍数が上昇し、真っ赤になる。
『会いに来るよ』
その言葉を思い出してますます顔が赤くなる。
やっぱり、そうなんだろうか。そうだったら、自分は嬉しく思うのだろうか。
しりもちの体勢から立ち上ろうと腕を前についたものの、予想以上に近い信との距離に気付いてしまった。
簪は直接脳に響くほどの心音を必死で押さえようとしながら、信の顔を覗き込む。というより、近付ける。
彼のことをもっと知りたくて。
自分をどう思ってるか、自分がどう思ってるか、知りたくて。
ありったけの勇気を振り絞り、その名前を口にする。
「ま……みや……くん……?」
「……ス……」
「!?」
「みかんの缶ジュースとか……斬新だなぁ……」
信はそう言って寝返りをうち、背を向けた。
簪はしばらく唖然としていたが、横の方に置いてあった『みかんの缶ジュース〜100%〜』と書かれた二本の缶を見て、吹き出してしまった。
確かに斬新なネーミングだ。でもだからって、夢で見るほどのことだろうか。
自分が信に対して抱いていたイメージからあまりにもかけ離れていることが、とてもおかしかった。
驚くぐらい、笑いが止まらなかった。
「……うーん……? んんー……! ……あ、更識さん……おはよう……」
「う、うん……ふふっ……おっ、おは、おはよう……ふふふ……!」
寝ぼけ眼でボーッとしている信がますますおかしくて、簪はいよいよお腹がいたくなってきていた。なんとか笑いをこらえようと口を手で塞ぐが、まったく効果がない。
むしろこらえなければと思えば思うほど、笑い声が出てきてしまう。
「……? あっ、そうだ! ごめんな、ぶどうジュース売り切れだった……代わりにオレンジジュース買ってきたから!」
「うっ、うん……ふ、ふふっ……」
「ていうかさ、商品名見てくれよ! 『みかんの缶ジュース』って。斬新だよなぁ……これはあれだよな? もしかしてもしかすると……いや、もしかしなくても、みかんの『かん』と缶ジュースの『かん』をかけて――」
「も、もう聞いたっ……! も、もう聞いたからっ……ふふふっ……! や、やめ、やめて……ふっ……ふふ……!」
「……そんなに面白いか?」
「ま、真宮くんのせいだからねっ……ふふっ!」
「俺? ……あっ!? 違うぞ! こんなくだらない名前をつけたのは俺じゃないからな!」
信は手をブンブンと勢いよく横にふって否定の気持ちを示す。
簪はなんだかとても暖かい気持ちだった。こんなに笑ったのは、もしかして生まれてはじめてかもしれない。
ひとしきり笑い終えると、簪はまだ少し口元を緩めながら、事の経緯を信に話した。
簪の爆笑の理由を聞いた信は、照れくさそうに頭をかきながら笑った。
「これはツッコむしかないと思いまして……」
「ふふ……それにしても、すごく気持ち良さそうに寝てた……」
「いや〜、昼休みにトレーニングルーム行って全力で体動かしたらさ、めちゃくちゃ疲れちゃって……あっ! でも授業はちゃん起きてたぞ!」
「なにも言ってないけど……」
「念のためだよ、念のため。ま、織斑先生の授業だったから寝るに寝れなかったんだけどね……」
信が体を震わす。
よほど恐ろしいのだろう、浮かべた笑みがひきつっている。
「しかもしばらくしたら学園祭準備の手伝いにも行かなくちゃならないし……あとジャンケンもしなくちゃなぁ……」
「そう……」
「あれ? そうえば更識さんは学園祭で何か出し物しないの?」
信が何気なく聞いてきたので、簪は先程の教室でのやり取りを思い出した。チクリと心がまた痛んだが、なるべく顔に出さないようにして淡々と答えを返す。
おかげで簪はいつも通りの簪に戻ってしまった。
「……一応、するけど……私はやらない……」
「え? やりたくないような出し物なのか?」
「別に普通だけど……多分みんな、私がいなくてもいいって、思ってる……から……」
「……それ、誰かに言われたのか?」
信の口調がやけに鋭くなった。怒られているわけでもないのに、自然に背筋が伸びてしまう。
「う、ううん……違うけど……でも、みんなそう思ってる気がする……」
「どうしてだよ」
「だ、だって……私、あんまりみんなと話さないし……それに私のこと、まだ誰も認めてくれない……」
「それか? 楯無さんと距離を置いてる理由」
ビクリと簪は体をこわばらせて、うつむき気味だった顔を勢いよく上げた。その時初めて、信の瞳を真正面から見つめることができた。
そこには果てしなく深い黒が広がっているが、恐怖心を煽るような黒ではない。むしろ安堵を促すような、優しい漆黒だった。
「大丈夫だよ。『あの優秀な生徒会長の妹』としてじゃなくて、『更識簪』っていう一人の人として見てる人は絶対いる」
「なんで……わかるの?」
「ほら、目の前にいるだろ?」
信はニッコリと微笑んだ。
どこまでも優しいその笑みを、簪は見つめ返すことしかできない。しばらく沈黙が二人を包む。
とてつもなく長かったのか、あまりに短かったのか、簪にはわからない。ただ安らぎに満ちた時間が過ぎているのを感じているだけ。
簪はなんとも言えない気持ちになった。言葉で表すなら、『安心』が一番近い気持ちなのかもしれない。
そんなことを思っていると、そうえば、と言って信が沈黙を破った。
「俺ってここに来るまで友達とか居なかったんだ。まぁ……何て言うか……俺って、その……少し特殊でさ」
「うん……聞いたこと、ある……」
「ああ……みんなができないことができちゃったから、俺と距離を置くやつらが多くなって、気付いたら独りだった」
「……」
「いつの間にか自分って嫌われてるんだなーって思い込んでてさ……ここに入学したときも正直、友達できるかなとかそれ以前に、みんなに嫌われないかなとか考えてた」
信の目は床を向いていたが、その目に写るのは床ではないのだろう。
何をすればいいのかわからなかった簪は、オレンジジュースをひとつ、彼に手渡した。
信はありがとうと言って受けとり、話を続ける。
「でもIS学園で初めてできた友達はな、俺がどれだけ周りから浮いてても『すげー』の一言で片付けるんだ」
信はプシュッという小気味のいい開封音を立て、例のオレンジジュースを開ける。
「そしたらみんな集まってきて、いつの間にか笑ってたんだ。俺も含めて。今まで『人に嫌われないかな』とか思ってたのに、そんなことがあっただけで『この人たちとなら仲良くなれる』って思ってたんだ……バカみたいだろ?」
信は呆れたように微笑むと、ごくごくと美味しそうな音を鳴らしてジュースを飲んだ。
簪もプルタブを引っ張って飲み口を開けると、ちびちびとオレンジジュースを飲み始めた。
「あー……あとな。俺、苦手な人いるんだよ」
「苦手な人……?」
「最初に会ったとき、なんだか知らないけどめちゃくちゃ怖くてさ、体が動かなくて……だから意図的に避けるようにしてたんだ。でもこの前……えっと……まぁ、助けてくれたんだよ」
何故か言葉につまった信を不思議そうに眺めつつ、簪はちびちび飲みを続ける。
「それで今も俺のことを助けようとしてくれてるんだ。向こうだって、俺が苦手に思ってることなんかわかってるはずなのに、助けてくれるんだ」
「……いい人、だね……」
「かもな」
信は携帯を取り出して、時間を確認する。
「で、何て言うか……気付いたことがあるんだ」
「?」
「自分の思い込みとか、先入観とか、そういうのってあてにならないんだって。自分が閉じ籠ってる殻なんて、内側の自分が勝手に厚く見てるだけで、外側にいる人たちなら簡単に破ってくれるんだって」
心に吸い込まれるように、その言葉が簪にはよく響いた。モヤモヤとした霧が吹き飛ばされたかのように、重しがすべて外れたように、心が軽くなった。
「今度は俺が更識さんの外側にいる。だから……」
信が飲み終わった缶を椅子の横に置き、立ち上がった。
座ったまま見上げたせいか、簪にはその姿がとても大きく見えた。そして、かっこよく見えた。
顔を少し赤くしてその姿を穴が開くほど見つめていると、スッと目の前に手が延びてくる。
数秒後、簪は無意識にその手を握っていた。
「更識さんが閉じ籠ってる殻は、俺が破るよ」
その時見せた信の笑顔は、明るく、優しく、簪の心に刻まれるのだった。
「よっし! じゃ、早速教室行こう! 更識さんの!」
「えっ!? い、嫌……! ま、真宮くんは学園祭の準備のお手伝いとか、じゃんけん、あるんでしょ……?」
「ふふふ……残念! 今日の学園祭準備貸し出し&じゃんけんは1年4組、つまり更識さんのクラスだ!」
信は先程と打って変わって、イタズラっぽくニヤリと笑う。
しまった、と簪は思うがもう遅い。何よりも握られた手を離すことができない。
別に強めに握られているわけではないのに、その手を振りほどくことができないのだ。
……正直に白状すると、その理由はわかっていた。
なぜか。
それは、心のどこかで離したくないと思っているから。ずっとこのままでいられたらと考えてしまうから。
簪は顔を赤くする。
「さーて! じゃ、まず更識さんは着替えなくちゃな。更衣室に行こう!」
「ちょ、ちょっと待って……! い、一緒に行くの……!?」
「逃げられたら困るしな。もちろん着替えは覗いたりしないぞ」
信は大股で歩きながら、簪に向かってそんな冗談を言う。
半ば引きずられるように更衣室に向かう途中、簪はふと、信の寝言の件を思い出した。
(あ……れ?)
もう一度、寝言を頭のなかでリプレイしてみる。
『……かん……ざ……し……』
『みかんの缶ジュースとか……斬新だなぁ……』
……もしかして。
ゆっくりと、簪は文字を補完していく。
『……かん……ざ……し……』
↓
『……み〈かん〉……〈ざ〉ん〈し〉ん……』
↓
『……み〈かん〉の缶ジュース……〈ざ〉ん〈し〉ん……』
↓
『みかんの缶ジュースとか……斬新だなぁ……』
簪は信の後ろ姿を睨み付けながら、顔を真っ赤にした。
一瞬でもあんなことを思ってしまった恥ずかしさと、紛らわしい寝言を言った信に対しての怒りの故である。
「……ばか」
誰にも聞き取れないほどの小さな呟きだった。それこそ、高鳴る鼓動にかき消されてしまうような。
そして、簪は言葉とは裏腹に自分がちょっとだけ微笑んでいることに気付かなかった。