小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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 (1)

吸い込んだだけで肺も凍りつくような空気が、静かに足元を這っていた。
暖房のきいていないその部屋の室温は屋外とそう大差なく、柳の身体を芯から冷やした。

生き物をすべて根絶やしにしてしまおうと目論んでいるかのように、窓の外では雪が吹雪いている。

「今日は2月に入ってから一番の大雪になる」とテレビのニュースでいっていたな、と柳は窓の外を見て思った。
「せっかくの日曜なのに、残念ですよねえ」とニュースキャスターはどうでもよさそうにコメントしていた。

無慈悲な雪の降るその日、倉田柳(クラタ ヤナギ)は8歳の誕生日を迎えた。

柳はかじかむ指を温めながら、お気に入りの黒いワンピースを着て、壊れたオルガンを弾いていた。
伯母さんの家には、柳が前に住んでいた家にあったような、黒い大きなピアノなんてものはない。
物置部屋の片隅で埃をかぶっている、ところどころ音の鳴らない小さなオルガンがあるだけだ。

たとえ音が鳴らなくとも、柳はこのオルガンが好きだった。
本当はちゃんと音の鳴るピアノが弾きたかったけれど、音は自分の頭で想像して補えばいい。
「ド」を押せば、柳の頭の中には「ド」の音が鳴っている。それで満足だった。

誰も祝ってくれない自分の誕生日を、せめて自分自身だけでも祝ってやろうと、柳はそう考えていた。

…今日は私の特別な日だから、お気に入りのワンピースを着て、お祝いの曲を弾こう。
ワンピース、お気に入りの黒いやつ。

しかし実際のところ自分の誕生日の何が特別なのか、柳自身、今ひとつよくわかっていなかった。
誕生日だからといって、誰かが特別扱いしてくれたわけでもなかったからだ。
普段と変わっていたことといえば、2月一番の猛吹雪だったことぐらいか。

「――お母さーん! 柳がまたアタシのピアノ弾いてるーっ!!」

突然、背後から叫び声が聞こえた。
驚いて柳が振り返ると、伯母さんの娘が部屋の戸口に立って柳を睨み付けていた。

伯母さんの娘は体格が良い。がっちりした大根のような脚に丸太のような身体、浅黒い肌、丸い鼻の上にそばかす、小さな二重の瞳、赤っぽい茶色のストレートヘア。
今は小さな瞳を見開いて、その視線でもって柳を射殺そうとしているかのようだった。
伯母さんの娘は柳のそばまでやってくると、オルガンのイスの上から柳を突き飛ばすた。
細身で力もない柳は簡単にイスから落とされてしまう。

「さわんないでよ! これ、アタシのなんだからね!」

床に強く身体を打ち付けられて、柳が呻いているのを、伯母さんの娘が冷ややかな目で見下ろしている。
騒ぎを聞き付けて、すぐに伯母さんがキッチンから走ってきた。

娘とそっくりな伯母さんを見て柳は、私の母親と伯母は姉妹のはずなのにちっとも似ていないな、と思う。

柳の母親の髪は真っ黒で、肌は真っ白だ。髪もストレートではなく、柔らかなウェーブがかかっている。
身体の線は細く、すらりと背も高い。唇は紅を引かずとも真っ赤だった。

柳の母親のその姿はまるで優美な鶴、伯母さんはさしずめラクダといったところか。

初対面の人間ならまず姉妹とはわからないだろうと思われるほどに、伯母さんと柳の母親は正反対だ。
唯一似ているところは目で、伯母さんも柳の母親も目は大きな二重だった。

「ちょっとあんたたち、何してるの?」

伯母さんはエプロンで手を拭いながら面倒くさそうに尋ねる。束ねた髪の毛はほつれかかっていた。
伯母さんはいつも髪を束ねていて、その髪はいつもどこか疲れ切ったように、力なくほつれかかっていた。

「お母さんあのね、柳がまたアタシのピアノ、勝手にいじったの。この間もだめっていったのに」

アタシのピアノ、と伯母さんの娘が指さしたのはもちろん、壊れかけのオルガンである。
普段は、オルガンが物置の代わりになろうが足場に使われようが文句を言わない伯母さんの娘だったが、こと柳がオルガンを弾くとなると、火がついたように騒ぎだした。


…またか、と伯母さんはため息を吐く。
それは自分の娘へのため息であり、妹の娘――倉田柳へのため息であった。

小学4年生になる伯母さんの娘が今よりもっと小さかったころ、伯母さんは娘にピアノを習わせようとオルガンを買い与えた。

しかし、いかんせん伯母さんの娘は乱暴な娘で、じっと座ってピアノを弾くなどということはしなかった。
彼女はオルガンにまったく興味を示さず、それどころか破壊してしまって以来、オルガンは修理もされず、粗大ごみ扱いされている。
伯母さんはこの壊れたオルガンを早く捨てたいと思っていたが、柳がすっかり気に入ってしまっているものだから捨てるに捨てられず困っていた。

そもそも伯母さんには、音が鳴ったり鳴らなかったりするこの壊れたオルガンの何を柳が気に入っているのか、まったく理解できなかった。
自分の妹と瓜二つなこの倉田柳という娘は、たびたび伯母さんには理解できないような行動にでることがあった。このオルガンの件に関してもそう。

何が楽しいのか、柳はよく壊れたオルガンを弾いていた。それを見つけるたび伯母さんの娘が「あれはアタシのなのに!」と騒ぐ。
伯母さんは「どうせ使ってなかったでしょ」と娘をなだめながら、オルガンを弾く柳の後姿をそっと見やる。

微動だもしないで、ひたすら音の欠けた旋律を奏で続ける柳の姿は不気味の一言につきた。
無口で無愛想で、およそ小学生とは思えないほど子供らしくなくて、そして弱冠8歳でありながら“美しい”と形容するにふさわしい美貌の持ち主。
それが、伯母さんの目に映っている倉田柳の姿だった。

そんな柳の顔を、伯母さんが正面から覗くことはなかった。

自分のコンプレックスが再び音を立てて腹の奥底から湧き出てくることに加え、恐らく父親譲りであろう、眼光鋭く凛々しい瞳でじっと見つめられると、わけもなく不安な気分にさせられた。
柳の母親も、それはもう美しいと幼少時代から褒めそやされていたが、倉田柳の美しさは母親の美しさとは種を異にしていた。


伯母さんはおきまりの文句を口にする。

「もう、どうせ壊れてるんだから。あんた、ゴミに捨ててもいいっていってたじゃない。そんなものぐらい柳ちゃんにも貸してあげなさい」

「やだ! これアタシのだもん! アタシのピアノなんだもん! 柳になんて貸してやんない!」

肩をさすりながら、柳は伯母さんと伯母さんの娘を無言で見つめていた。
それからゆっくり立ち上がり、伯母さんと娘が言い争っているのを尻目に、部屋を出た。

コートとマフラーを取って、そのまま玄関へ向かう。
途中、柳は廊下で伯父さんと鉢合わせした。
伯父さんは、部屋で騒いでいる伯母さんとその娘の声に眉をひそめ、外に出ようとしている柳の姿に更に険しい顔をしたが、しかし何もいわなかった。

ブーツを履いてドアを開けると、視界が真っ白になった。
あまりの吹雪に、柳も一瞬たじろいだが、構わずに外へ飛び出した。

伯母さんの家の近くには小さな公園がある。遊具もブランコと滑り台しかない、ただの広場のような公園だ。
柳は伯母さんの家を抜け出しては、夕方までこの公園で過ごすことが多かった。
滑り台の下に小さなトンネルがついている。柳はそのトンネルに潜り込むと膝を抱えて座った。
寒さで手が震え、風が目に滲みて涙が溢れてきたがそれでも柳はじっと座っていた。
日が暮れた頃、柳はのろのろと立ち上がり、伯母さんの家へ帰った。

そうして、柳の8歳の誕生日はあっけなく終わった。


 *

伯母さんの家は、換言すれば、柳の母親の実家で柳の祖父母の家だった。
柳が伯母さんの家で暮らすようになったのは、柳の両親が離婚してからのことである。

柳が今より幼かったころ、柳の両親は離婚し、母親は柳だけを連れて家を出た。柳が生まれた家には現在、柳の父親が住んでいる。

当初、母娘は小さなアパートを借りて暮らしていたが、金銭的な事情か、母親が祖父母から戻ってくるように勧められたのか幼い柳には理由がよくわからなかったが、いつの間にか、柳と柳の母親は祖父母の家に住んでいた。

伯母さんは柳の母親の実の姉で、伯父さんは伯母さんの婿養子である。
伯母さん夫婦にその娘、伯母さんの母親、つまり柳のおばあさんという構成だった世帯に、柳とその母親が入り込んだ。

歓迎されていないのは幼い柳にもよくわかった。
まず、柳は、伯母さん、伯父さん、その娘、おじいさん、おばあさんに会ったことが今まで一度もなかった。まったく交流もなかったのに、いきなり「親戚だから仲良くしましょう」といわれてうまくいくはずがない。

おばあさんは柳の手を引いて現れた母親を見て「お前とは親子の縁を切ったはずだ」と言い放った。玄関から顔をだしているおばあさんは、ドアにかかったチェーンロックをはずさないまま応対している。
ドアの隙間に垂れ下った頑丈そうな鎖が、親子の間を完全に分断していた。

「勘当しただろう」

「いまさらどのツラさげてあらわれたんだ」

「おまえなんか娘じゃない」

言葉の意味はわからずとも、おばあさんの剣幕をみれば、柳にだって「祖母は私たちを歓迎していない」ということぐらいはわかる。
母親はおばあさんに何かいいながら何度も頭を下げていた。柳はそれを無表情に見つめ、次におばあさんの顔を見た。

これが私の祖母なのか? と柳は疑問に思った。

おばあさんはちょうど絵本に出てくる悪い魔女のような外見をしていた。
柳はおばあさんの顔を見て真っ先に、お姫様にリンゴを売りに来る魔女の顔を思い出していた。

黒眼の小さな瞳をギョロギョロと動かしているその老女の表情に文字を書くとすればこうだろう……疑心暗鬼。
顔中に無数に刻まれた皺の数だけ不幸を背負ってきたとでもいいたげな顔で、おばあさんは柳の母親を睨めつけている。

一般に“おばあさん”と聞いて想像するような穏やかさや温かさといったものが、柳のおばあさんからは一切感じられなかった。
濃いグレーのブラウスを一分の隙もなく着こなし、背筋を伸ばして立つおばあさんには威圧感しかない。

柳の母親とおばあさんはその面差しに似通った部分がまるでなかった。だから、目元を除けば母親と瓜二つだった柳も、おばあさんには似ていない。
ただ1つ、似ている部分を上げるとするならば、その顔に浮かぶ冷たい表情だろうか。

おばあさんが柳を見下ろす。おばあさんと柳の目が合う。おばあさんは何もいわずに目をそらした。

次に柳が会ったのが伯母さんだった。
伯母と祖母は間違いなく親子だろう。雰囲気はおばあさんより明るく社交的だったが、顔立ちはよく似ている。

伯母さんは柳の顔を見て「妹の子供のころにそっくりなのね、柳ちゃんは」といった。
「うらやましいわ」とつぶやく伯母さんの横顔を見て、柳は、きっと伯母も私の母親が嫌いだったのだ、となんとなく思っていた。
伯父さんは特にリアクションせず、夫婦の娘はわかりやすく拒否反応を見せた。

おじいさんは既に他界していたがおじいさんはどことなく柳に似ていた。
私の母親は祖父に似たのだと柳は遺影を見て思った。全体的に整った顔つきで、凛々しい目元が印象的だった。

伯母さん達と暮らすようになってから、柳と柳の母親は以前にも増して会話をしなくなった。それまでは2人で暮らしていたわけだから、一応会話をしていたものだが、伯母さんの家に来てからはあまり顔を合わせることもなくなった。
どうやら柳の母親は、柳の世話を祖母や伯母に任せてどこかへ出かけているらしかった。そのことについて、伯母さんやおばあさんが愚痴をこぼしていたのを柳は聞いている。

「結婚する前はあれだけ偉そうにいっておきながら、結局、出戻りしてきて」

「どうしようもない娘だよ、あの娘は」

「どうして子供を引き取ったりしたんだろう」

「引き取ったってどうせ世話はあたしたちに任せっぱなしじゃないか」

どこへいっても、柳は孤独だった。
柳の両親が離婚する前だってそうだった。柳が覚えている限り、両親はいつも喧嘩ばかりしていた。
だから柳は、時折街の中で家族が楽しそうに会話しているのを見かけると、わけもなく不思議な気分になった。
楽しくどこかに旅行に行くとか、そうでなくとも、普段、食事中の何気ない談笑の一時とか、そういった類いのものが柳にはまったく理解できない。

柳にとって、家族とは他人であり、家庭とは殺伐としたものだった。

柳は幼稚園で、「家族」と題して、へのへのもへじが多少ましになったような人物を4人、それらが横一列に無表情で並んでいる絵を描いたことがある。
他の子供たちの絵のなかで、柳のその絵だけが一際、異様な雰囲気を放っていた。

柳の描く絵は決まっていつも色合いが暗く情感に乏しいものであった。心配した幼稚園の教諭が柳に話をしたところ、それからはうって変わって明るい色で絵を描くようになり、教諭ももう大丈夫だろうと安心した。
しかし実際には、柳の心理状態には特に変化などなく、「自分の感性で絵を描くと先生に怒られる」という認識が生まれただけだった。

柳の絵に登場する人物は4人、父、母、柳、それから兄である。兄は父に引き取られ、父と共に、かつて柳と母親も暮らした家に住んでいる。

柳の兄は、神那(カナ)という男にしては大分風変わりな名前であったため、よく他人からは「お兄ちゃんの柳くん、妹の神那ちゃん」と勘違いされた。
そう言われる度、神那は「僕が神那で、柳は妹です」と訂正して、周囲の大人を感心させたものだった。
柳と神那の年の差は1歳しかなかったが、柳に比べ、神那はずいぶん大人びていて、しっかりはきはきと受け答えする子供だった。

柳にとってとても頼もしい兄だったが、それももうずいぶん昔のこと、今の神那がどんな人間になっているのかということは、柳にも想像がつかなかった。

その兄と、柳は思いもよらぬことがきっかけで再会することになった。

「――死んだよ。お前の父親が」

そういったのは、おばあさんだったか母親だったか、柳はよく覚えていない。とにかく、父親が死んだらしい。
柳の父親には、両親も兄弟もいない。
遠縁の親族はいたようだが、父親の遺産は、柳の兄である神那が相続することになる。とはいえ、神那はまだ子供であり、遺産は宙に浮いた状態も同然だった。

そこで、柳の母親が提案したのだ。

「私たちは本当の親子なのだし、やっぱり一緒に暮らすべきだわ」

今更何をいいだすんだと柳は思った。そう思っても、反対する理由が柳にはなかったし、反対する権限も柳にはなかった。

どのみち、神那は誰かが預からなくてはならなかったし、伯母さんも、柳とその母親に早く出ていってもらいたいと思っていただろうから、その時点では、誰にとっても損のない話だった。
神那の親権が母親に移されることになり、同時に柳は自分が生まれた家に帰ることとなった。


 *

柳が伯母さんの家を去る日の前日、最後の夕食時に伯母さんが「柳ちゃんとも今日でお別れね」といった。
「あらあら、寂しくなるわねぇ」と伯母さんが笑いながらつぶやいて、食卓に白々しい空気が流れる。

「でもタイミングよかったわよねぇ。柳ちゃんも春から小学3年生だし、ちょうどクラス替えの時期に転校できてよかったじゃない。ほら、離婚とかも子供の転校とか考えると2月、3月あたりがいいっていうしね、ほんと、いいタイミングだったじゃない」

「『ほんと、いいタイミングで死んでくれたじゃない』とでも言いたいのか」と茶々を入れる人間はここにはいなかった。
伯母さんのつぶやきに柳は「はい」とだけ答えた。伯母さんは何かに憑かれたように、愉しそうに話し続けていた。
柳の母親は何もいわなかったし、おばあさんや伯父さんも何もいわなかった。ただ、箸が食器をこする音だけが淡々と響いていた。


夕食の後、柳が1人、部屋で荷物をまとめていると、伯母さんの娘がやってきた。

「柳……」

柳は返事もせずに荷物を片付けている。

「あのね、今まで、いろいろいじわるしてごめんね」

ここで柳は手を止める。

「これ、明日、前のお家に着いたら読んでね」

伯母さんの娘が手紙を差し出した。柳は何もいわずにそれを受け取る。

「それじゃ、おやすみっ」

伯母さんの娘が部屋を出ていってすぐに柳は手紙の封を切った。三折りの便箋が入っている。便箋には、赤いクレヨンでこう書いてあった。

『二度とくるな』

ただ一行だけ書き殴られていた便箋を4つに切り裂いてから、封筒に便箋をしまう。その封筒もカバンにしまう。
柳は荷造りを再開する。

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