小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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 * * *

伯母さんの家を去るその日は天気がよく、珍しく気温も高かった。
何を着ようかと柳は考えて、お気に入りの黒いワンピースを選んだ。
誕生日に着て以来だったが、まさか次に着る機会が前の家に戻る日になろうとは、柳も想像していなかった。

伯母さん夫婦が柳の家までついてくることになった。伯母さんの娘もついてきた。柳の兄を見てみたいのだという。
荷物を運び出しながら、伯父さんが「こんなことぐらいしかできなくてすまないな」と、静かにつぶやいた。
伯父さんが柳を見る目には、明らかに哀れみがこもっていた。

…それなら助けてよ。

そう思ったが、それをいったところでなんになろう。誰だって、我が身の心配で忙しいし、面倒事には首を突っ込みたくないのだ。
もし何かあったときに、匿名で警察に通報するぐらいのことをしてくれたら、それだけでいい。
柳は、伯父さんのほうも見ずに「はい」とだけ答えた。


車でしばらく走っていると、懐かしい家が見えてきた。
2階建ての一軒家、たった4人で暮らしていたとは思えないほどの部屋の数、広い庭、ガレージ。今更ながら、大きな家だと柳は思った。
その懐かしい家で、柳は父親の遠縁にあたるという夫婦に出会った。
そして、父親が死んでからはその夫婦が面倒をみていたという、実の兄、倉田神那(クラタ カナ)と再会した。
柳と神那は1歳しか年が離れていないから、神那は今年で小学4年生なるわけだが、それにしてはやけに大人びた雰囲気の少年に成長していた。
顔つきは精悍で、背も高い。柳と同じく真っ白い肌に、短く切られた漆黒の髪、目付きだけは柳よりも一層険しく、周囲に鋭く眼光を光らせていた。
その鋭い瞳でもって神那は柳を見つめていた。柳も神那の双眸を見据えてじっと押し黙っていた。
伯母さんの娘は神那を見て、柳を見て、自分の両親の顔を見て、それからもう一度神那の顔を見ていた。


 *

大人たちが話をしている間、神那と伯母さんの娘と柳は、3人揃って、2階の客間に座っていた。

「子供はあっちにいってなさい」

そういわれて仕方なく、3人は何もない2階の一室へやってきた。伯母さんの娘を挟んで、両側に神那と柳が座る。
伯母さんの娘は興奮した様子で、神那に向かってしきりに何か話していた。神那と柳は終始無言だった。やがて、伯母さんの娘もしゃべるのをやめる。

「つまんないの」

伯母さんの娘はそういうと、立ち上がって部屋を出ていった。神那と柳の間に、1人分の隙間ができる。
神那は安座して窓の外を見ている。何の音も聞こえない。時々、家の前を通る車の音がする程度だ。
柳は膝を抱えて座る。身体を隠すようにして、じっとしている。

「…柳?」

最初に話しかけたのは神那だった。妹の名前が“柳”であっていたか、自信がないような調子だった。
柳はゆっくり、神那のほうへ顔を向ける。

「神那」

確かめるように柳も兄の名前を呼ぶ。

…たぶん、名前で呼んでいた。「お兄ちゃん」とか、そういうんじゃなかったような気がする。

神那は柳の瞳を見つめながらも、どこかもっと遠くを見ているような目をしていた。

「死んじゃったな」

兄が何をいわんとしているのか、柳にもわかった。
真っ先に話題にされるべきだったはずなのに、何故か今までまったく触れられることのなかった話題だった。母親は好んで父親の話をしなかった。

「死んじゃったね」

不思議なことに、改めて「死んだ」と口にするまで、自分の父親が死亡したことに柳は特にこれといった感慨も抱いていなかった。
父親といっても、柳にしてみればずっと昔に両親が離婚してからは顔を見ることもなかったし、離婚する前だって大した思い出もなかった為、父親が死んだと聞かされても悲しいとは思わなかった。

しかし、今になって、急に妙な寂寥感が柳の胸に込み上げてきた。
柳が着ている黒いワンピースは父親が少し前に送って寄越した物だった。柳の母親は突然届いた前の旦那からの小包を、忌々しげに柳へと渡した。

「ほらこれ、貴女にだって」

ほとんど投げつけられるように渡された小包を手に、柳はしばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。
何故、父親が急に服を贈る気になったのか、その時の柳にはわからなかった。母親は何も説明しなかったし、父親からの小包にはメモの1つもついていなかったのだ。


「――悲しい?」

神那が問いかける。素直に柳は答える。

「わかんない……」

そう、わからないのだ。仮にも自分の親が死んだというのに、わからないのだ。寂しいような気はしないでもなかったが、悲しいのかと聞かれたら、よくわからなかった。
柳は兄に、今自分が着ているワンピースは父親に貰ったものだと伝えた。

「なんで私にプレゼントしてくれたんだろう」

「それはきっと」と神那は呟いて、そこで一旦言葉を切る。

「誕生日だったからだろ」

神那は微かに笑いながら、もうずいぶん前になるけど、と前置きして「誕生日おめでとう」といった。
音のならないオルガンで、密かに祝った自分の誕生日のことを、柳は思い出していた。

…結局あの日、誰も祝ってくれなかったんだ。私の誕生日。

「覚えてたんだ」

「まあ」

それきり2人は黙った。柳は抱えた膝に顔をうずめる。それからゆっくり顔をあげて微笑む。

「…ありがとう」

妹の笑顔を見て、兄も笑う。満足感が柳を包む。
暖かな幸せの気配の影で、柳は明確に「自分は今悲しんでいる」と理解した。
あのワンピースは自らの死期を悟った父が、少し早い誕生日プレゼントのつもりで贈ってくれたのかもしれない。父親は、祝ってくれていたのかもしれない。柳の誕生日を。
それも今となっては確かめることもできないのだ。

「…神那」

「ん?」

「やっぱり私、悲しい。神那は、悲しくなかった?」

しばらくの間、父親と離れて暮らしていた柳と違い、神那は父親とずっと一緒にいたのだ。最もショックを受けたのは兄であったろうと柳は考えた。
しかし、神那は取り乱すわけでもなく、平然といった。

「俺もよくわかんない」

無意識のうち柳は神那に近づいていた。伯母さんの娘が座っていた分、兄妹の間に空いていた隙間が徐々に縮まってゆく。

「まだ、よくわかんないんだ。死んじゃったって、よく、わからない。いつも仕事で家にいなかったし、だから、いなくなっても、また、いつか帰って来るような気がするんだ」

そんなわけないんだけど、と神那はつぶやいて、困ったように乾いた笑みを浮かべた。

「…いつか、帰ってくるかもしれないよ」

ぽつりと柳は呟いた。神那は目を見開いて、それから小さく頷いた。

「やっぱり、俺」

柳は兄の声が僅かに震えていることに気がついた。

「悲しいよ、俺も」

いつも喧嘩ばかりしていた両親。楽しい記憶なんてほとんどなく、家庭はいつも空虚だった。それでも、兄妹にとって、父親は父親だった。

「大丈夫だよ」

呟いてから、柳は何が大丈夫なのか自分で自分に首を傾げた。よくわからなかったが、とにかく柳は「大丈夫」といって兄の背中に手を置いた。
神那は深く息を吐き、それからまっすぐ柳の瞳を見つめて力強く頷いた。

…父親は死んでしまったけど、ひょっとしたらこれからは幸せに暮らせるかもしれない。

うららかな日差しに照らされて、柳はそう思っていた。

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