小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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 *

山の斜面を切り開いて作られたその墓地に訪れる人の姿はなく、寒々とした空の下、無数の墓石だけが頭に雪を積もらせて、静かにそびえていた。

兄妹は目当ての墓石に近づいて、まずは石についた雪を払った。
それから簡単に、枯れた花、落ち葉や木の実を脇によけて、用意していた線香の束に火を着けた。そなえる花は用意していなかった。

柳は墓石からステンレスの線香皿を取り出して「濡れてるわ」と困った顔で兄を見た。マッチをいじっていた神那は、仕方ないだろとつぶやいて、柳に線香を手渡した。
兄妹は線香を供えると、そのまま手を合わせて瞑目した。

静かだった。

兄妹の他に生き物の気配はなかった。植物も死に絶え、世界中に兄妹だけが取り残されてしまったかのようだった。

時折吹く風が葉の落ちた樹を揺らした。枯れ枝は老人の腕のように乾いて細く、寂しげにかさかさと鳴った。
答えるように、墓に供えられた造花が揺れる。揺れる、不自然な鮮やかさ。まがいものの鮮やかさ。

柳と神那は図ったように同じタイミングで顔を上げる。2人は互いに顔を見合わせる。


「ねえ、神那、何か考えていた?」

「いや。何も」

「だろうと思った」

「柳は?」

「春から神那と同じ高校に入学します、私は音楽科です、って」

「それだけ?」

「それだけ」


兄妹は無言で墓石を見つめていた。
他の家のものに比べれば相当質素な造りの墓で、無縁仏かなにかかと見間違えてしまいそうだった。
場所も他の墓石の群から少し離れており、生い茂った樹木に隠れるようにして立っていた。


「静かね」

「そうだな。他に誰もいないんだろう」

「すごく静かだわ。私、ずっとここにいたい」


神那は同意しなかった。そのかわり、妹をいたわるように、憐憫の目を向ける。


「…ねえ、神那」


柳はなにか迷っているようだった。言おうか言うまいか、言うべきか言わざるべきか。
喉の奥に言葉のトゲが刺さっているかのように、思い詰めた表情で遠くを見つめていた。


「とりあえず、いってみろ」


神那が促すと相変わらず柳は沈んだ表情をしたまま、しかし、一度だけ頷いて口を開いた。


「あのね、この人のね……この人の、一生って、いったいなんだったのかしら」


墓石を見据えながら柳はつぶやく。
冷えて乾いた空気の中で、柳の声だけは湿った生温かさを持って響いていた。


「その人にはその人が生きてきた軌跡があったわけでしょう? でも、私、何も知らないのよ」

「俺たちが知らなくても、この人は確かに生きてたし、生きてきた過去があった」

「それを覚えている人がこの世に何人いるのかな。この人が生きていたことを証明できる人。この人がどうやって生まれて、どうやって生きていたのか知ってる人」

「さあな」

「いったいなんだったの? 残したものはお金だけ。その財産も今や食い潰されようとしてる。自分の身体は燃やされて、山の中のこんな小さなお墓に入れられて、お彼岸にもお盆にも迎えてくれる人もなし、訪れてくれる人もなし……」

「しょうがないだろ。俺たちの他に誰がくるっていうんだ。誰が……」


力なくつぶやいた神那は、妹の顔を見てぎょっとした。柳の瞳から頬にかけて、つう、と涙が流れていた。


「なんだよ……どうしたんだ急に」

「ねえ、この人はなんの為に生きていたのかな。こんな、小さな石になる為に生きていたのかな……
お墓だって、残したお金はたくさんあったはずなのに。
あのね、もっと立派なお墓を立てればよかったのにって、いいたいわけじゃないよ。そういうことじゃないの、そういうことじゃ……」

「何をいいたいのかは、わかる」

「寂しいじゃない、どうして誰も覚えていてくれないの? どうしてこんな、遠く離れた場所に埋めたの?
お墓になんてなんの意味もないことぐらい、わかってるの。でも、このお墓がこの人の終着点だったのに、こんなのって、なんだかあんまりだわ、あんまりだわ……」


うう、と柳が嗚咽を上げた。
神那は柳の肩に手を寄せて、泣きじゃくる赤子を慰撫するように軽く、叩いた。


「私、この人が死んだと知っても、そんなに悲しく思わなかったことを覚えているの。
おばあさんが私にいったのよ、『お前の父親が死んだよ』って。おばあさん、明日の天気は雨だってとでもいうような口振りだったわ。ううん、それよりもっとどうでもよさそうというか、面倒そうだった。
今思い出しても、悲しいのかなんなのか、よくわからないわ。
私ですらそうなのよ。なのに他の誰がこの人の死を悲しんで、覚えていてくれるっていうの。生きている間だって幸せだったのかどうかすらわからないっていうのに……」

「同情したって意味ないだろ。仕方ないんだよ、死んだら、終わりなんだ。
大概の人間は死んだら忘れられる。この人が同情されるほど特別かわいそうなわけでもないよ。
だいたい、死んだ人間はもう考えることもできないんだ。自分が死んだ後の世界で、生きている人間が自分をどう扱うのかなんて、考えないし、知らないんだよ。当たり前だろ、死んでるんだから。
それでかわいそうだなんだっていうのはナンセンスだ。生きている人間の勝手な思い込みだろ」

「神那……」

「この人が生きていたとしたら、こういったはずだ。そういう人だったんだよ。たぶん」


言い切った兄の横顔を見やって柳は俯いた。
涙をこらえようとしているのは神那にもわかったが、柳の意思に反して雫は流れ、地面に落ちる。口元を抑える手が、肩が、小さく震えている。


「…なあ」

神那は妹のほうを見ずにいう。

「泣きたきゃ思い切り泣け。疲れてるんだよ。お前は」


コップのふちぎりぎりまで満たされている水、そこに一滴、水滴が落ちる。決壊はあっという間に起こった。
柳は兄の肩口に頭をつけて、声を上げて泣いた。
兄のコートの胸元をむしるように掴んで柳は涙を流す。神那は黙って前を見据えていた。妹を慰めるでもなく、ただじっと押し黙って、墓石を見つめていた。

灰色に曇った空から、雪が舞い降りる。それは枯れ木にも、墓の上にも、兄妹にも平等に降り積もる。


「…この世のすべての人間がこの人のことを忘れたって」

神那は言い含めるようにつぶやいた。

「俺たちは覚えてるだろ。俺たちは何も知らないけど、でも、この人が生きてたってことだけは覚えてる。
俺たちにはこの人の血が流れてる。だから、俺とお前は兄妹なんだ。俺たちが兄妹である限り、この人がこの世から忘れ去られることはないよ。いいだろう、それで」

柳は真っ赤になった瞳で神那を見つめ、やがて1つ頷いた。

「神那、私たち、兄妹よね」

「そうだ」

「ずっとよね」

「ずっとだ」

「本当に血のつながった兄妹なのよね」

「そうだ」

「この先、何があっても、私たち、兄妹よね」

「もちろんだ。ずっと」

「うん。いいの、それなら。いいの」

それから兄妹は静かに、自らの父親の墓を後にしたのだった。

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