小説『利己主義者の世界』
作者:キリン(ストラムメッセンジャー)

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* * *

ある雪の日のことであった。

「――柳(ヤナギ)、用意できたか」

神那(カナ)は真新しい詰襟の学生服を着て、妹が部屋から出てくるのを待っていた。

神那が高校に入学してから1年が経つ。
まだよれた部分のない少し大きめの学生服も、入学した当初よりはいくらか身体に馴染んできていた。

生徒たちの中にはこの詰襟が鬱陶しいという者もいたが、中学の頃から詰襟の学生服を着ていた神那はさして気にしていなかった。
おそらく身体が成長するにつれ、この隙のない制服が窮屈に感じられるのだろうが、きっとそのことにもそのうち慣れてしまうだろうと思っていた。

神那の通う帝海高校はもともとは男子高であったが、後に共学化、その際に制服も改変しようということになった。
女子の制服がだけがブレザーなのは、共学化するにあたり、旧来の帝海高校の古いイメージを払拭する意味があり、女子の制服に合わせて男子の制服もブレザーになる予定だったのだが、「学校の伝統を重んじるべし」との反発を受け、やむなく男子は詰襟のまま、女子も夏はセーラー服を着用することになったらしい。
その話を聞いて、なんだか馬鹿馬鹿しいなと神那は思い、どうでもよかったはずの制服を少し鬱陶しく感じた。

「待たせてごめんなさい」

慌てた様子で柳が部屋から出てきた。
柳も制服姿だった。紺のセーラー服の上に細身の黒いコートを羽織っている。
去年までは神那も通っていた中学の制服だ。
柳は今年中学を卒業し、春からは兄と同じ帝海高校の音楽科に入学することが決まっている。

「マフラーは?」

「いらない」

「途中で寒いっていうなよ」

「…じゃあ神那は?」

文句をつけるわりに自分もマフラーをしてないではないかと、柳は憮然とした表情で神那を睨み付けてくる。
神那は無言で部屋に戻ると乱暴にマフラーを取って、ぐるぐると首に巻き付ける。
そうすれば妹が逆らわないことを神那は知っている。
渋々、といった面持ちで柳も自室から白いマフラーを持ってきて首に巻いた。

「行くぞ」

神那のあとを柳が早足で追う。

「もう、待ってよ」


 *

長い間、電車に揺られ、兄妹がたどり着いたのは、人気もなく寂れた山間部の田舎町だった。兄妹がこの町に訪れるのは1年ぶりになる。
駅舎から出ると、辺りは一面、銀世界だった。風が吹くと街路樹に積もった雪が風に舞って、2人の視界を阻んだ。

「神那、バスが来るわ」

駅前のバス停に駆け寄った柳が神那に手招きする。
路面のところどころに張った薄氷を避けながら、神那もバスの時刻表を覗き込んだ。

「あと5分よ」

「時間通りに来るならな」

「吹雪でもないし、大丈夫だと思うけれど」

「確か去年は20分は来なかった」

「そうだっけ」

「駅の中で待つか?」

「きっと今に来るわ……ああ、ほら見て」

柳は神那の腕を引いて得意げに微笑んだ。

「来たわ、ね、来るっていったでしょう」

タイヤに巻いたチェーンをジャラジャラと鳴らしながらバスが近づいてくるところだった。
腕を組んだままバスに向かって歩き出す柳に神那は「一応、来て当然なんだよ」と苦笑した。
路面の傍らに積もった雪を踏まないようにしながら柳はバスに乗り込む。
暑いほどに暖房が効いた車内には1人も乗客がいなかった。たった2人だけの乗客の為に、バスは滑るように走り出した。


田んぼの畦道のような細い市道をバスはのんびりと走る。
途中、いくつか通過したバス停の周りには民家もなく、いったい誰が利用するのだろうと兄妹に頭を傾げさせた。
遥か遠くに見える山々には真綿のような雪が降り積もっていた。

柳は窓の外を眺めては時折、神那の肩を叩いて、ねえ、白鳥がいるわ、見て、あのポスト、どうして四角じゃないのかしら、あれは沼かしら池かしら、とつぶやいた。
珍しく口数の多い妹に兄も付き合って、あれを見てみろこれを見てみろと言い合った。


しばらくしてバスは山の麓に停車した。
申し訳程度に除雪された道路に兄妹は要心深く足を下ろす。それにもかかわらず足を滑らせた柳が神那の腕にしがみついて、神那まで足を取られそうになった。

神那は呆れ顔で柳を一瞥し、柳は照れたように笑った。
バスが発車する前に、兄妹は揃ってバスの運転手に、僅かに会釈した。
運転手はどこか驚いたような表情をしつつ兄妹に手を上げて見せた。

「もう少しね」

「そうだな」

山の麓からはその中腹まで舗装された細い坂道が通っていた。
隣には朱色の手すりと石畳の階段が敷設されている。
手すりの塗装は剥げて、ところどころ茶色い錆が浮き出ていた。
兄妹は凍結した階段をゆっくりと登り始める。



運転手はバスを発車させる寸前、ちら、と後ろを確認した。
珍しい2人の乗客が山の細道へと入っていくところだった。

だいたいこの辺りでバスを利用する人間は限られていて、大抵が顔見知りになっていた。その中には学生もいたが、先ほどの乗客の制服はどの学生のものとも異なっていて、運転手には見覚えがなかった。
学生服を着ていたし、恐らくは中学生だろうか。

まだ幼い雰囲気の残る2人だったが、少年のほうは、凛々しい精悍な顔付きで、数年もすればさぞかし立派な偉丈夫、いや、美丈夫になるであろうと思われた。

少女のほうは清々しく、ガラス細工のように精緻できらきらしい美貌の持ち主だった。
この町にあんなに美しい少女がいたら、まず間違いなく連日誰彼構わず噂をしたことだろう。

少年と少女、どちらも透けるように色が白く、降り積もった雪の中に溶けてしまうようだった。

しかし、そんな2人がこんな山奥に何の用だろうか。
少年と少女が降りたバス停は、少なくとも子供がたった2人きりで訪れるような場所ではなかった。

あのバス停の階段の先にあるのものは、墓地だ。

この世のものとは思えないほどの美貌を持つ2人が墓地でバスを降りる。そのまますうっと2人で山の中へ消えてゆく。
なんとなく背筋が薄ら寒くなって、運転手はぶるりと身震いした。
そして、帰りもあの2人がバス停で待っていてくれることを祈った。

山に入ったまま墓地で姿を消してしまう少年と少女の映像が、妙にはっきりと運転手の頭に浮かんで離れなかった。

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